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記憶のあいまいさ

風景とは全然関係ない話題。

人間の記憶ほどあいまいなものはないでしょう。
はっきりと覚えていると思っていることだって、細部を詰めていけばけっこうあやふやだったりする。かえって、早く忘れたい嫌なことほど、なかなか記憶が消えず、ディテールが明瞭によみがえってきて苦しめられることもある。まあ、そういうときは酒で誤魔化すしかないけれど。
覚えることと忘れることを、脳はどのように判断しているのだろう。昔から疑問だけれど、年齢とともに記憶容量が確実に落ちていく反面、記憶すべき事柄の量は反比例して増えていく以上、何を消去すべきかは、脳の健全性を保つ意味でとても重要なはず。

それから、記憶同士の順番が次第にずれてくる。30年前の出来事が20年前の出来事より最近のことのように思われたりする。もちろん逆もある。脳の中で、1年前、10年前、20年前。。。という「記憶の年齢」とも言うべき情報は、どのように構成されているのだろう。齢をとっても忘れられない記憶とは、何がそうさせているのだろう。

忘れないために文章を書く。その瞬間、それは外部の客観的な対象物に転化し、自分自身ではなくなってしまう。自分自身の言葉であっても、独立した存在として歩き始めてしまう。昔の日記を見て赤面するのは、たぶん、自分自身は絶えず変化しているのに、外部に排出された文章がそのままの形で残っているから。考えてみれば、日記なんて、心の排泄物みたいなもん。書いている一瞬に意味があるだけで、書き終わった瞬間、それはただの文字列に過ぎなくなる。読み返すなんてものじゃないわけだ。要するに、生の記憶は、文字を介さず、心の中に貯蔵していくしかない。酒の醸造と同様、月日がたてば、その味は変質していく。記憶自体も変化しているってこと。

記憶は共有できるか。記憶が共有できるなら、それは人類のDNAの中に何らかの形で書き込まれ、次代へと受け継がれていくのだろうか。

風景の記憶、という言葉が好き。人はみな、風景の記憶をDNAの中に持っているのではないだろろうか。


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テーマ : いま想うこと
ジャンル : 日記

風景に溶け込むということは?

美しい風景って何だろうとつくづく考える。
また、美しい風景を見に行くとは、どういうことか、とも考える。
考えたってわかるものではないが。

ここ3年間、あちこち旅してきた中で、記憶と写真を整理する意味で、備忘録のような記事をHTMLでつづってきた。公開するつもりで書いたものではないが、ふとしたことから、手直しして、ウェブに出してみた。備忘録みたいなものだから、それを見た人からコメントが欲しいとか、人のサイトを熱心に見てコメントを書き入れたいとか、そういうモティベーションでやっているわけではないのかな、私の場合。せっかくWEB2.0という素晴らしい仕組みが出来つつあるのに、ただのWEB1.0時代のままじゃん。
人のサイトを見て、ああ自分と共通する価値観を持つ人はいるものなのだなという印象もあるし、ああここに行って見たいなと思って実際に行ったところもいくつかある(多くは本や文献を見て場所を決めてきたけれど)。
同じ場所を見ても感想は人それぞれのはずだが、いろいろなブログの記事を見てみると、同じような記事が散見されたりする。ボキャが少ないせいか、元資料が同じせいか、大体みな同じような所に目が行くのか。。。でも、それでいいじゃん。他人様と張り合って、あのブログよりはカッコつけた記事にしよう、なんて考えることは馬鹿げている。

美しい風景に触れるということ。
いちばん大事なのは、記録に残すことではなく、その場に立って、その空間に全身で浸かる、ということではないだろうか。高速代や新幹線の料金を払ってまでそこに行くのは、そこに行って、自分自身を風景の中に置くということに意味があるのだろうし、単に風景だけを見れればよいのであれば、極論すれば、グーグルアースのような究極のツールがあればバーチャル的に何でも出来てしまうわけだ。グーグルアースのすごさはこの世にインターネットが出てきたのと同じくらいのインパクトがあると思っているが、それはまたの機会に置いておいて、風景に溶け込むということに、訪れるということの意味があると信じたい。実際には旅に出ても時間に追われてばかりで、ほんの刹那の旅人でしかないのだけれど。
キャノンの一眼レフデジタルを購入し、ますます写真漬けになる可能性があるが、写真を撮ることが目的ではないという、あたりまえの原点に立ち返るようにしたい。風景の素晴らしさを感じるのが大切で、写真はその半分も再現できない。写真で再現できないことを見て感じて瞼に焼き付けて帰ってくることが旅人。時間があればスケッチをしてみたい。

小鹿野-歌舞伎に彩られた絹の道

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小鹿野の街並みは、秩父から志賀坂峠を越えて群馬、長野に通じる街道筋にありま。今でこそ、秩父の外れの山間の町でしかないですが、明治大正の頃は、絹織物を運ぶ重要なルートで、商業都市として大いに栄え、生糸売買の市も立っていました。戦争中の昭和19年2月、いわゆる小鹿野大火で多くの建物が消失してしまいましたが、それでも貴重な商家が残り、昔からの街並みを維持しています。
全体に平入が多い中で、写真(右)の妻入の建物は本陣「寿旅館」。
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小鹿野や秩父は江戸時代から歌舞伎が盛んで、今もその伝統が町全体に息づいています。住民すべてが役者と言っても大げさではなく、小鹿野の住民である以上、歌舞伎と無関係に生きることは出来ないみたい。住民たちのアイデンティティであり、観光目当ての村おこしとは次元が違うようで。
歴史は古く、文化文政の頃、地元出身の坂東彦五郎が江戸で修行を重ねて帰郷し、若い衆に教えたことがきっかけとなって、本格的に演じられるようになりました。小鹿野は大和座、長瀞は和泉座が最盛期を作り、大正時代には、遠く群馬県まで、荷車を引いて上演に出かけていたそうです。
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小鹿野町観光情報館「夢鹿蔵(ゆめかぐら)」。もとは、1896年に建てられた旧埼玉銀行の蔵で、生糸と繭の保管庫として使われていました。2階に歌舞伎の衣装、蔓などが展示されています。小鹿野歌舞伎は、保存会が中心となって、子供から老人まで、実に多くの世代の人たちが参加しています。福島県の桧枝岐など、各地方に伝わる伝統歌舞伎の関係者が集う「全国地芝居サミット」も開かれています。
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常盤屋という屋号を掲げている、加藤家住宅。明治13年築の出桁形式の土蔵造りで、その豪壮さには圧倒されます。それというのも、外見は3階ですが、内部は4階になっており、2・3階は蚕の飼育に使われていました。見上げるような大きさで、当時の「絹バブル」ぶりがうかがえます。
現在は学習塾になっているらしく、玄関には中学生向けの数学のプリントが張られていました。無味乾燥な予備校でなく、こんな家で勉強できたら、古典の勉強とか、さぞ身が入ったでしょう。
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明治30年地築の商家。絹や繭を扱っていました。当時、交通手段は馬が主体だったので、商家の前には馬をつなぐために穴を開けた石が置かれ、鉄柵が設けられていました(駒繋処)。鉄柵は戦争中に軍に没収され、戦後に復元されたもの。
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村山酒店。明治15年創業の醤油屋で、家屋は両神村(現在は小鹿野町)の製糸商の家屋を買って移築したもので、戦後は酒屋に転業したのですが、今でも看板は「醤油商」となっています。創業者の思いを大切にしたかったのでしょうか。

■埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野■
秩父市から県道209号線を北上すると、やがて小鹿野市へ。バイパスに平行した旧道に、昔からの街並みが広がる。商店の看板や住宅の塀など、街中いたるところに歌舞伎のパネルが飾られている。町内には秩父十三仏霊場のいくつかがあり、巡礼者も見かける。また、神社を中心に常設の歌舞伎舞台が10もある。農民ロケットで知られる吉田には、県道37号線皆野両神荒川線で少し北にいく。国道299号線を進み、志賀坂峠を越えると群馬県、上野村には1986年の日航ジャンボ機遭難の慰霊碑があり、今も夏に慰霊登山が行われている。山梨県側に抜けるには、小鹿野から県道37号線で荒川村に出て、国道140号線に合流する。遭難の名所、和名倉山の脇を通り、長い雁坂トンネルを越えれば、そこは山梨県塩山市である。

テーマ : レトロを巡る旅
ジャンル : 旅行

吉田久長-農民ロケットと秩父事件の伝統を伝える

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秩父市の吉田久長は、静岡の草薙や岡部、滋賀県の米原などとともに、農民ロケットで知られています。テレビなどでご存知の方も多いのではないでしょうか。龍の昇天を思わせることから「龍勢」と名づけられ、椋(むく)神社の例大祭として、毎年10月の第二日曜日に発射されます。由緒ある椋神社の例大祭で奉納されるもので、立派な「神事」なのです。興味のある向きは境内の碑を読んでください。

マツの丸太を2つに割って中をくりぬき、口径10cmの火薬をセットし、竹たがで締めて筒にします。境内には、なんと龍勢の現物が飾られています。カラフルな布が巻きつけられている竹筒こそ、龍勢なんですね。長さは15mほどで、これを山の斜面に設けた櫓から、口上をあげつつ打ち上げるのですが、先端には、背負い物と呼ばれる唐傘、花火、落下傘などのさまざまな仕掛けが施され、300-500m舞い上がった上空で、流派により個性を競い合います。ただし、失敗することも少なくなく、簡単ではないようです。
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椋神社の境内。秩父地方は舞台が設けられている神社が多いようで。
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椋神社は、秩父事件の際に農民たちが集結した場所。町内には秩父事件に縁の深い場所をめぐるコースが設けられています。
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山あいの小さな集落に突如、登場する洋風建築。旧武毛銀行本店。吉田町は秩父、小鹿野とともに絹や生糸で栄えた街で、この武毛銀行は明治35年に設立され、大正8年にこの本店が完成していますが、そのわずか3年後、秩父銀行に合併吸収されてしまいました。はかない命だったのですね。構造は木造れんが壁で、正面ファサードには白れんがを用いて表情を変えています。秀逸な作品ですが、手前に停められた軽トラ君が何とも。。。。。現在は市の所有らしいが、建物名称を示すプレートは何も付けられていません。
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地酒「秩父小次郎」を醸造する造り酒屋。旧武毛銀行本店の対面にあり、そのコントラストが目を引きます。

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■埼玉県秩父市吉田久長■
現在は秩父市に合併されている。秩父市街から国道299号線で小鹿野方面に進み、泉田で右折する。「道の駅 龍勢会館」が探索の起点となる。この道の駅には秩父事件を再現する「井上伝蔵邸」と、農民ロケットを展示する「龍勢会館」が隣接して建てられており、どちらも必見である。「井上伝蔵邸」は、秩父事件を題材とした映画「草の乱」撮影用に復元されたもので、現在は資料館となっている。椋神社は「道の駅」から1kmほどのところにある。

テーマ : レトロを巡る旅
ジャンル : 旅行

秩父-夜祭の舞台となる秩父往還の街並み

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右側の珍しい寄棟屋根の建物が、旧柿原商店。大正から昭和にかけて建てられ、絹織物「秩父銘仙」の問屋でした。平成14年に、「秩父ふるさと館ー秩父札所巡礼のやかた」に生まれ変わり、秩父に初めて巡礼に訪れる人のための資料を多数、展示しています。希望すれば、衣装一式を借りて、一日巡礼もできるらしいです。2階には40畳敷の大広間があるほど大きく、秩父夜祭の際には、通り側の1階の格子戸と障子をすべて外し、桟敷席にするという粋な演出がなされます。蔵もきわめて豪壮な造りです。  
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かつての秩父往還には、今も歴史をしのばせる民家が多数残っています。どっしりとして重厚。部分的に電線地中化もなされています。伝建に指定されてもおかしくないような印象。
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秩父は、表通りから一歩入った裏町に、味わいのある界隈が残されています。意図して残そうとしているのではなく、自然体で残っているという感じで、わざとらしさを感じません。一生懸命に美しく修景した街並みを観光客に見てもらおう的な気負いも感じられません。この地方の中核都市であるから、表通りには電気量販店やスーパーなどもありますが、あくまで古い町並みが主であって、量販店などは街並みを壊さない程度に最低限、分散配置されている(という印象を受けます)。秩父に行ったら、ぜひ、裏町を歩きましょう。
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古代より「知々夫絹」の産地であった秩父は、今も秩父銘仙が特産で、「ちちぶ銘仙館」は、その伝統を余すところなく展示しており、今も月に一度、製造ラインを動かしています。線路をはさんで、本館と工場棟が離れていて、写真は工場棟。のごきり屋根の木造建築は、寄棟屋根の本館と対照的で、ともに味わい深く、住宅街の中に隠れるように立っています。
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うなぎ「寿司市本店」。裏町で発見した、実に渋い料理屋だが、現在は営業しているのかどうか。
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豚肉味噌漬の「世界商事」。一歩入った狭い横丁に面しています。建物は大正4年築で、和風旅館のような佇まい。秩父は肉質のよい秩父豚の産地で、昔、イノシシを狩った猟師がその肉を保存するために味噌漬けにした手法を応用した秘伝なのだそうです。秘伝の手作り味噌は、賞味してみる価値ありです。
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「秩父国際劇場」の看板を掲げているが、今は閉鎖され、資材置場として使用されています。閉鎖されたのは1983年というから、もう四半世紀近く立つというのに、未だに現存しているのは、所有者の思いもあってのことでしょう。シャッターには綺麗な絵が描かれています。
ところで、少し横に回って見上げてみると、アールの看板の向こうに屋根が見えますね。正面から見たときは鉄筋コンクリート造と思い込んでいましたが、切妻屋根で瓦葺となると、もしかしたら木造かもしれません。それにしては、非常に大きい建物です。
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というわけで、裏側に回って見て驚きました。裏側は集合住宅になっていて、かつてこの劇場で働く従業員たちが住み込んでいたのでしょうか。今もって、何造だかわかりません。そういえば、浅草にも、同じような映画館があったっけ。かつての映画館建築は現存しないものが多いですが、価値ある建物は多いはず。誰か系統立てて調べてみてはどうでしょう?

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■埼玉県秩父市本町~道生町■
秩父には、飯能市から国道299号線で名栗峠を越えて入るルートと、熊谷から寄居経由で国道140号線で長瀞から入るルートがある。秩父といえば、秩父夜祭である。京都祇園祭、飛騨高山祭と並び、日本三大曳山祭のひとつに数えられるほど。12月2-3日に行われ、豪華絢爛な笠鉾2基、屋台4基が牽引される。無数の提灯をつけた6基の山車が町内を闊歩する様は圧巻だろう(見てみたい)。駅の左側には「秩父まつり会館」があって、現物の坂鉾・屋台を見ることができる。巡礼に行く人は、巡礼の館に立ち寄れば、関係資料がくまなくそろっている。秩父三十四か所観音霊場は、西国三十三か所、坂東三十三か所とともに、日本百番観音に数えられ、全行程は100kmあまり。市内の道では、多くの巡礼者に出会う。

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玉の井-かすかにカフェ街の面影が残る

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玉の井のカフェ建築。迷路のような路地の奥に、人目をはばかるようにひっそりと立っています。
その昔、永井荷風はこのあたりをどんな心境で日夜彷徨していたのでしょうか。
バルコニーのアールと特徴的な建具から、一目でカフェ建築とわかりますが、今も普通に人が住んでいます。どんな方が住んでおられるのか、内装はどうなっているのか、外観と同様、内部もアールデコ風なのか、興味は尽きません。願わくば購入して内装リニューアルして住みたい、そんな気持ちになります(お金があればの話ですが)
。実は、このお宅の前にも、かなり古いカフェ建築があったのですが、2007年1月に再び訪れたところ、すでに解体されていました。おかげで、このように全景をファインダーに収めることができたものの、更地にかつてのカフェ建築の付け柱のモザイクタイルの破片を発見し、複雑な心境になってしまいました。もはや、風前の灯なのでしょうか。
無造作に置かれた自転車、やけに生活感があります。
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勝手口がある妻側にも、アールの庇と円柱が配されている。窓からは、軽いポップミュージックが流れていた。木製建具はとても凝ったつくり。かつてはこういう器用な建具職人がどこにでもいたはずなのに。
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同じく、路地裏で見つけたカフェ建築。このように一目見てそれとわかる建物は少なくなってしまったようですが、かつての名残を感じさせる建物は建物は随所にあります。建築探偵になった気分で歩いてみましょう。
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ちょっと変わった作りの洋風建築。とがった3階部分は、急勾配の金属板葺きの妻入で、窓まわりは鮮やかなブルーのモザイクタイル張りとなっています。今は玩具屋さんですが、かつて何屋だったのでしょうか。とても不思議な建築。屋根裏の3階に上がってみたいです。

■東京都墨田区東向島5丁目■
玉の井は、東武鉄道の「東向島駅」の近く。国道6号(江戸通り)と東武鉄道にはさまれたエリアで、東武鉄道のガード添いに多少クルマを停めるスペースがある。エリア内は道が狭く、路地が入り組んでいて、いわゆるカフェ建築も路地に面して建てられている(表側からは発見できない)。多くの人が暮らす木造密集住宅地であるから、住人に嫌がられたり迷惑をかけるような行為は慎みたい。

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檜原-甲州型の兜屋根が並ぶ東京都の秘境

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昭和30年代くらいまで、東京のチベットなどと呼ばれていたという檜原村。今や、全線開通に向けて建設が進む圏央道のあきる野I.C.からアクセスも抜群。
あきる野市街から、旧檜原街道に入るとじきに、思わず目を奪われるような建物に遭遇できます。ただし、最近の檜原街道は峠族のサーキット場と化しており、重厚な茅葺住宅に本格的な蔵の前を、爆音を残して最新型のバイクが一瞬にして駆け抜けていきます。街並みを見ながらゆっくり走る余裕はありません。まあ、そういう自分もかつてはずいぶん峠を攻めに行ったものですが。。。
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街道から少し外れた小さな集落で見つけた、ほぼオリジナルの茅葺民家。アルミサッシも網戸もない開放的な住居。夜は蚊帳を吊って寝るのでしょうか。日本の伝統家屋の暮らしそのものではないでしょうか。洗濯物や布団が干してあるのに、人の気配はありません。野良に出かけたのでしょう。
およそ犯罪などとは無縁な、昔の古きよき時代のムラ社会が、ここにありました。秋川渓谷のせせらぎ、小鳥のさえずり、木々のささやきが織り成すハーモニー。クレモネとなった茅葺屋根は、見事なまでに環境に溶け込んでいます。ここは本当に東京都なのでしょうか?
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山梨県と隣接するこの地域には、甲州型と呼ばれる兜形の入母屋屋根を持つ民家が多く、多くは鋼板葺に改装していますが、その堂々たる佇まいは実に力強いものがあります。兜造りとはよく言ったもので、戦国武将が身にまとった兜を髣髴とさせますね。棟まわりの形に特徴があり、屋根職人のこだわりと心意気が感じられます。
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典型的な甲州型の3層民家で、屋根は檜皮葺。現在は温泉(数馬の湯)になっています。
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兜屋旅館。築200年の重厚な4層木造住宅。柱も太く、一見してその辺の民家とは造りが違います。かつての豪農の屋敷だったのでしょうか。近くで見上げて初めて味わう圧倒的な威圧感は、荘厳な仏教寺院のようで、写真ではまずピンと来ないに違いありません。
現在は料亭や旅館として使われていて、山菜料理は美味しそうだが、お値段はちょっと高め。温泉ではないですが、都会の喧騒を離れて自然を満喫し、心からくつろぎたい時、こういう宿で何もせずに過ごすのは最高の贅沢かもしれません。50代と思しきご夫婦が静かに食事をしていました。

■東京都西多摩郡檜原村■
圏央道の終点のあきる野インターから、五日市街道を経て檜原街道へ。途中、落合で御嶽山に向かう道を分ける。檜原村役場の先でT字路にぶつかる。右に行くと日原鍾乳洞に向かう神戸林道につながっている(ちなみに、日原鍾乳洞の手前の倉沢には、かつての石灰鉱山の社宅の集落が廃村となって残されていた。2005年、取り壊されたという)。数馬へはこのT字路を左折する。上川乗(写真)で上野原方面への道を分ける。人里(と書いて「へんぼり」と読む)を過ぎ、やがて数馬へ。兜屋旅館以外にも数軒の旅館があり、温泉センターもある。イワナやヤマメなど釣り人のメッカでもある。檜原街道を直進すれば、やがて風張峠から奥多摩湖に出て、山梨県の小菅村、丹波山村へと続く。

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遠州森-奥遠州の小さな城下町「三木の里」

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奥遠州は駿河と言っても尾張にかなり近くて、室町時代は今川家の支配下にありましたが、桶狭間の戦いの敗戦で今川家は衰退し、結局は徳川家の支配下になりました。森という地名は既に鎌倉時代から使われており、「森」の字が三本の木で構成されることから、別名「三木の里」と呼ばれるそうです。城下町のため、街には武者隠しが施されており、この道もまっすぐ突き当たるとクランク状に曲がっています。
町内には名産のお茶屋さんもちらほら。それから、なぜか、江戸時代から「古着の街」として名が通っていて、全国の相場を左右していたとか。交易上それほど地の利がよいとも思われないのですが、なにゆえ古着商が産業として確立できたのでしょうね。
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城下町である森の景観は、いわゆる人工的な修景が施されておらず、年代年代ごとに、街並みを壊さないように配慮しつつ、それなりに街づくりを営んできた様子が見て取れます。
たとえば、上の写真の町屋。せっかくの格子戸をつぶして当世風にリニューアルしたのでしょうが、今となってはリニューアルした部分も風雪に洗われ、伝統的な下見板張りの外壁との組合せにも、不思議とそれほど違和感が感じられません。
下の写真は、町屋に接して設けられたガレージのシャッターがさび付いていて、これもある意味で「なじんで」います。異質で人工的なものであっても、エイジングを重ねることによって、伝統的なオリジナル部分との調和が進み、違和感は薄れていくのかもしれません。
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電気屋さん(のはず)なのですが、ひたすら祭りのポスターを貼り付けています。祭りのポスターというのは、実にダイナミックです。それだけ、祭りには視覚的要素がふんだんに織り込まれているわけです。祭りというものの大衆芸能性を考えれば、街を歩きながら、たとえ一瞬にしろ、祭り特有の高揚感の中に飛び込めるというのは、面白い装置ではないだろうか、などと思ったり。。。
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特に観光地でもない普通の地方都市で、古い街並みを維持することの困難を感じます。たとえば、この町屋。柱は曲がり、構造体が大きく歪んでいます。まっすぐ立っていることさえ辛そう。すでに人が住んでいる様子ではありません。ここまで傷んだ町屋を修復するには、多額の費用がかかります。補助金でも出るならともかく、街並み維持のためにそこまでがんばれないよ、という風にも受け取れます(少なくとも、自分がこの家の住人だったら、そう考えたに違いないという意味で)。

■静岡県周智郡森町■
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東名高速道路を袋井ICで下り、県道58号線を北上する。天竜浜名湖鉄道は、静岡県の掛川から、森を通り、天竜二俣、三ヶ日を経て湖西市の新所原に至る、超ローカル路線。郊外には、「森の石松」のお墓、江戸元禄年間に建てられた国指定重要文化財の友田家住宅、十二段舞楽で名高い小國神社、天宮神社など、史跡が多い。

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金沢-長屋を持つ格式高い武家屋敷が連なる

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香林坊から少し外れたところに、長町武家屋敷街が広がっています。その武家屋敷外への入口にあたる位置にあり、「金沢老舗記念館」として公開されている建物で、かつて藩政時代からの薬種商であった「中屋薬舗」の建物を復元したものです。
表通りに面して「みせの間」が設けられ、玄関にはくぐり戸を付けた大戸が入れられ、柱間を開放できる蔀戸もついています。内部と外部の中間的なこの空間は、商談を行うことが目的のスペースであることは当然として、積雪寒冷地ということも一因としてあったのかもしれません。
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いかにも金沢です、的な観光パンレット的スナップ。でも、やはりいいですね。雪化粧すると、その風情は素晴らしく、歌人でなくても、素晴らしい句が読めそうな気になるかもしれません。この堀は大野庄用水といい、金沢では最も古いとか。
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武家屋敷街の一画。かつて上級~中級の武士が暮らす、格式高い街だったそうです。
確かに、質実な下級武士の屋敷に比べて、優雅で趣があります。長屋門を設けることが許されたのは中級武士以上の屋敷に限られていました。実際、武家屋敷に混じって建てられている現代住宅でも、門は本当に立派で、これは東京人の感覚ではなかなか理解できないのではないでしょうか。庭には大野庄用水の水を引き入れた池泉回遊式庭園が見られる家もあります。
一方、身分の低い足軽たちは、組ごとにまとまって、一種の「団地」のようなところに住んでいました。その名残は、「金沢市足軽資料館」で見ることができます。

■石川県金沢市長町■
JR金沢駅は最近ガラス張りの立派な駅舎になったが、古都金沢の表玄関としては賛否両論ありそうな気もする。かの有名な女流建築家の手になる「金沢21世紀美術館」は大人気の様相。新旧デザインが融合するパリのような都市をイメージしていたのだろうか。やはり、旧花街の茶屋街(西・東)の街並みに漬かりたい。室生犀星や泉鏡花に自らを重ね合わせ、旅人の気分を満喫したいものである。そして、前田利家をまつる尾山神社、寺町などなど。

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美濃-卯建の連なりが見せる躍動感あふれる屋根

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重要伝統的建造物群保存地区に指定されている街並み。
美濃の卯建は、袖壁から屋根面全体にかけて、連続した「棟」のように納められていること。このように躍動感あふれる風景は、今となっては貴重なものです。屋根に独特の立体感、リズム感を生み、歩いていて、自然と視線が上に引っ張られます。端正な和風建築に、こういう形でダイナミックさを与える手法があったことに気づかされますね。それにしても、一度見たら忘れられない形です。
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小坂家住宅。つくり酒屋を営む素封家で、母屋から酒蔵まですべて江戸時代の建築(1772年 安永元年)。このように「むくり」を設けた屋根は、美濃では小坂家だけで、棟卯建と相まって、実に風雅で美しい屋根です。国重要文化財に指定されています。
江戸時代は「三本卯建」であったが、明治になって中央のうだつを取り除いてしまったというから、実に惜しい話です(左上に、かつての名残が見える)。
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江戸時代は建築規制があり、卯建は比較的地味であったそうです。防火隔壁であると同時に隣地境界線であるという意味で、機能優先だったのではないでしょうか。しかし、明治になって江戸時代の規制が解かれると、卯建の豪華さを競うようになります。特に、裕福な家同士が隣り合うと、こういう現象が生じます(右は古川家、左は平田家)。
約90cmのバッファーゾーンをはさんで、2つの卯建が並び立っています。富の象徴である以上、1mmでもお隣さんより高くしたいという心理が働くのでしょうか。そんなところで張り合っている場合ではないだろうと、以後、お上によって規制されることになりました。
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卯建の飾りは、豪華なものは鳥ぶすま、鬼瓦、破風瓦、懸魚の四部で構成されています。さらに、卯建の下、下屋の庇上に、箱型の「火防神」の神棚が設けられているのに注目。防火隔壁の卯建に加え、さらに念を入れて火防神を拝むようになったのは、美濃は地形の関係で水が少なく、ひとたび火災が生じると一気に燃えてしまいやすいためだとか。卯建との組合せが何とも印象深い。これほど表現豊かな屋根を見せてもらったのは、美濃が初めてのような気がします。
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建物の脇から見ると、軒の上に卯建が連続して張り出してきます。きちんとラインとレベルがそろっているところ、れっきとした景観コードとして機能していたのでしょうね。
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1300年の歴史を持つという美濃和紙を使ったあかりアートは、美濃の代表的な風物。和紙独特のテクスチャーが行灯のようにほんのりと照らし出され、何ともアンニュイで幻想的な雰囲気。癒し効果は抜群です。
毎年10月には、うだつの上がる街並みにアート作品がずらりと並べられる、美濃和紙あかりアート展が開催されています。「美濃和紙あかりアートミュージアム」に行けば、うっとりするような作品の数々に浸かることができます。作品に付けられた名称をひとつひとつ見ていくのもなかなか面白いですね。このショットは、伝建地区にある「藤山」(とうやま)さんの店内を撮らせていただいたもの。
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1997年まで営業していた旧名鉄美濃駅は、美濃では珍しい洋風建築。構内には当時運行されていた電車が3台、保存されています。電車というより路面電車です。構内には鉄道部品や鉄道模型が所狭しと並べられ、鉄ちゃんなら一日いても飽きないかも(私は1時間もいたら飽きるでしょう)。関西や東海地方には私鉄の路面電車が今も現役で運行されていて、関東人の目には新鮮に映ります(関東にも江ノ電が走っているが)。

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豊郷・高宮-かつて渡来人が開拓した中山道の宿

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近江八幡を中心に幅広い社会活動を展開した建築家ヴォーリズの作品、豊郷小学校。保守系町長による小さな町の小学校校舎解体は、全国的な話題にまで発展しましたね。建設会社の工事着手を住民が実力阻止したシーンは、いまだ記憶に新しいところです。
訪れたときは、そんな事件があったことは想像もできないほど、昼下がりの静けさの中にありました。中には入れませんでしたが、歴史的価値が高いことは一目見てわかります。オーラがあるんですね。そこにあるだけで、存在感がまるで違うのです。これは、いい建築の条件の最たるものだと思います。ちなみに、小学校にしては広すぎる駐車場には、どういうわけがあるのでしょうか。
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ヴォーリズの豊郷小学校の対面の光景。写真で見るとギャップが大きいのですが、現地に佇んでみると、不思議と違和感がありません。それだけ、ヴォーリズの洋風建築が、昔ながらの景観の中に自然に溶け込んでいるのでしょう。
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豊郷は近江商人を多く輩出した。伊藤忠商事を創業した伊藤忠兵衛の生家が今も残されています。天秤棒、転じて、巨大総合商社。近江商人の商売は、現代ビジネスの原点たるのでしょうか。
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ちょっと考古学になってしまいますが、豊郷の町外れに、「阿自岐神社」という変わった名前の神社があります。お宮様の名前は阿自岐ですが、地名は安食で、社殿の脇には、不思議な池があります。神社の境内にこんなに大きい池があるのは珍しく、かなり趣が違う様相です。一体なんだろう、これは。。。という感じですね。
手がかりはすぐに見つかりました。ここはかつて、応神天皇15年(西暦285年)、百済からの渡来人である、阿自岐氏によって開拓された地であり、日本書紀にもその名が登場するほど古いのだそうです。3世紀といえば、まだ秦氏の大集団が大陸から渡来する、はるか前。応神天皇による統一大和朝廷が飛鳥に成立したばかりの頃です。未開の僻地だったここ近江の地に、なぜ渡来人が住み着いたのでしょう。神社の由緒に、阿自岐氏との直接の関係が出てこないのが不思議です。池にはショウズという湧水があり、旱魃のときにも決して枯れることはありませんでした。安食という地名は全国にあり、かつて渡来人が住んでいたことが多いそうです。
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中山道高宮宿。本陣が1、脇本陣が2、旅籠が23と、中山道では本庄宿に次ぐ第二の大きさを誇っていたそうです。多賀神社の門前町として栄えたところで、宿の参道入口には巨大な大鳥居と常夜灯が鎮座しています。宿の中を流れる堀割。せせらぎの両側に板張りと塗り壁の妻面が面する様は、高宮らしいアングルtakamiya03.jpg

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中山道沿いには提灯屋の店。つい、立ち止まってしまいます。

■滋賀県犬上郡豊郷町■
■滋賀県彦根市高宮■
ともに近江鉄道本線の駅がある、旧中山道沿いの町である。高宮はかつての中山道第二の宿だけあって、今も商店が立ち並び活気があふれているが、豊郷はどちらかというと静かな農村という感じ。当初は近江鉄道で各駅停車の旅を考えたが、電車の本数も多いとは言えず、時間に制約されるので、結局クルマで移動した。天気がよく、体力に自信があれば、レンタサイクルで移動するのが、街道の雰囲気を味わえてベストかもしれない。
豊郷の東側から、東近江市にかけて、秦荘という地名のエリアが広がる。文字通り、秦氏の領地だったところで、近江上布、秦荘紬の資料を集めた「手おりの里金剛苑」がある。上蚊野には、かつて、300基にも及ぶ渡来人(依智秦氏)の大古墳群が遺存し、今は10基が整備保存されている。百済寺、秦氏が建立した金剛輪寺も、かつての渡来人王国の存在をしのばせる。西武鉄道創始者の堤康次郎は秦荘出身。

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鳥居本-赤玉神教丸と合羽を生んだ中山道の宿

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東海道新幹線の米原駅からほど近く、米原に停車しない「のぞみ」や「ひかり」が数分おきに轟音とともに飛び去っていく以外は、本当に静かで落ち着いた宿です。宿内の専宗寺は聖徳太子ゆかりの寺で、石碑が立っています。湖東地方は秦氏の勢力範囲だったため、聖徳太子と関係が深い寺院が多く点在しています。町屋は厨子二階で卯達を持ち、近江地方の民家の特徴として建具など木部を赤く塗った家が多いです。
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鳥居本には、赤玉神教丸の製造販売元である有川製薬があります。宿の東側の端にあり、入母屋の表構えはたいそう立派ですが、それも梁間8間という大きさから納得できます。何度も増改築を繰り返した結果でしょうか、何重にも屋根が重なった妻壁は、「八棟作り」と呼ばれるほど変化に富んでいます。明治天皇が御休止されたとの石碑も残されています。
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赤玉神教丸は、腹痛、下痢止めの薬として、記録によれば少なくとも万治元年(1658年)から製造していたとされ、参勤交代の大名ご一行も道中で重宝していたことでしょう。ちなみに、この珍妙な名称は、赤い小粒の丸薬であることと、延命長寿の神様として信仰されていた高宮の多賀大社の神教に由来しています。有栖川宮の御用係を勤めていたことから、有川姓を名乗るようになったとか。
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木曽路名所図会という江戸時代の文献にも取り上げられ、今もそのコピーが店舗の入口脇に張られています。神教丸と書かれた暖簾の前で主人が商談をしています。近江には富山とともに薬屋さんが多いですね。
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鳥居本のもうひとつの名産が、長旅に欠かせない合羽。和紙に荏の油と柿渋を塗布したものらしいですが、一体どれほどの防水性があったのでしょうか。今でも合羽の形をした看板がぶら下がっています。
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近江鉄道鳥居本駅
湖東地方をトコトコ走る二両編成の私鉄の背後を、時速300km近いスピードで新幹線が駆け抜けていきます。鳥居本駅は、1931年に米原-彦根間が最初に開業したときに建てられた洋風建築。いたって簡素な骨組で、建具もオリジナルの木製のままですが、今も現役。東海道新幹線と国道8号線にはさまれて、鳥居本宿の今昔を見守ってきました。
近江鉄道は、滋賀県の米原を起点とし、八日市で近江八幡方面と貴生川方面に分かれます。明治29年、近江商人の出資により、お伊勢参りの街道に沿って計画され、建設が始まりました。近江商人の大きなモットーは商いで得た利益を地域へ還元することであり、鉄道建設という大事業もそのフィロソフィーから当然のことでしたが、その経営は昔も今も決して楽ではありません。西武鉄道の創始者、堤康次郎氏は沿線の豊郷に近い秦荘の出身で、生家も残されています。昭和18年にはその堤氏が経営を引き受け、現在は西武鉄道の傘下にはいっています。今も西武鉄道払い下げの黄色の車両が走っていて、事情を知らない人は目を疑うかもしれません。

■滋賀県彦根市鳥居本町■
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東名高速を米原ICで下り、国道8号線を京都方面に向かう。JR米原駅前を過ぎると、やがて鳥居本の表示が出る。向かって右側に近江鉄道鳥居本駅の洋風駅舎があり、そこを左折すると、すぐ鳥居本宿である。近江鉄道は地元ではガチャコン電車として親しまれ、米原駅から1つ目の駅が鳥居本である。かつては35軒の旅籠屋が並び、にぎわった。
宿内には、彦根から安土、近江八幡を通って野洲で中山道と再び合流する彦根道との分岐がある。この道は江戸に向かう朝鮮通信使が通ったことから、朝鮮人街道とも呼ばれている。

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祇園-僧侶と舞妓が似合う花見小路

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■京都市東山区祇園町■
京阪電車の四条駅下車。烏丸から四条大橋で鴨川を渡り八坂神社前に出る四条通の南北に広がる、言わずと知れた京都を代表する一画。写真は花見小路通で、両側には料理屋がぎっしりと軒を連ねている。昼間よりも、どちらかというと夜に訪れたい場所。変な意味ではなく、照らされた格子戸や瓦屋根の連なりが、陰影となって夜空をバックに浮き上がって見える。通り全体が美術工芸品のようである。もともと八坂神社の門前町として栄えた街で、朝早かったため舞妓はんには会えなかったが、近くの建仁寺のお坊さんが二人、白い息を吐きながら歩いていた。

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鞍馬-鞍馬天狗を生んだ洛北の火祭りの里

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重要文化財に指定されている滝沢家住宅「匠斉庵」。宝暦10年(1710年)の築というから、江戸時代中期です。屋根はもともと板葺きでしたが、2階屋根と卯建は瓦葺に葺き替えられています。
鞍馬は炭焼きの伝統があり、この家も数ある炭焼問屋だったのでしょう。炭焼きのために広い土間が必要だったため、二間を通し土間としています。土間には石組のだるま式井戸と、土と縄でくみ上げ漆喰で上塗りした句土(くど)があります。右側には、木の芽煮本舗の「辻井」が連続しています。山椒の実と北海道利尻産の昆布を混ぜて長時間かけて煮た京佃煮で、昆布を用いていることからも、幅広い交易が行われていたことをうかがわせます。

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鞍馬川に沿って山あいの街道沿いに続く鞍馬の集落。もともと鞍馬寺の門前町であると同時に、京都から丹後、若狭へと抜ける鞍馬(若狭)街道にあって、さまざまな物資の集積地として栄えていました。中でも、鞍馬炭は京の都でも愛用されていました。
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鞍馬寺。鞍馬弘教の総本山で、宇宙の大霊(尊天)を本尊としています。宝亀元年(西暦770年)に鑑真和上の高弟鑑禎上人が毘沙門天を祀る草庵をたて、延暦15年(西暦796年)に藤原伊勢人が都の北方鎮護の寺として伽藍を建立したと書かれています。
急な傾斜面に立ち、仁王門から本殿まで九十九折の階段が続いています。門前には土産物屋が並び、活気がある。仁王門の左側には僧房がある。木造4階建の切妻で、見上げるような大きさ(下の写真右の右上に、屋根だけが映っています)
松明を持って街道を練り歩く、鞍馬の火祭りで有名な由岐神社は、鞍馬寺のすぐ近く。初詣のとき、貴船神社にはシャトルバスでハシゴできます。

■京都市左京区鞍馬本町■
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世界遺産に登録された上賀茂神社のある上賀茂から鞍馬街道(県道40号線)を北上する。鉄道では京阪電車の終点である出町柳駅から叡山鞍馬線で宝ヶ池を経て終点が鞍馬駅。

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牛若丸(源義経)はまだ1歳のとき、平治の乱で平家に敗れた敗れた源義朝の子として平家に捕らえられ、後に鞍馬に送られ、7歳から10年にわたり、学問と武芸の鍛錬にいそしんだ。その義経に武芸を仕込んだのが天狗僧であったわけで、鞍馬天狗の名はあまりにも有名。

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津山-町全体が箱庭のような美作の城下町

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旧出雲街道沿いに歴史的な街並みが、ほぼ原型に近い形で残されています。町全体があたかも箱庭の博物館のようで、本当にタイムスリップしたかのようです。もはや解説はいらないでしょう。戦災を受けなかった日本の街は、これほどまで端正で美しかったのかと。。。津山は文人の出身地としても知られ、上の写真は江戸時代の洋学者であった箕作阮甫の生家で、一般公開されています。内部は典型的町屋の作りで、奥行きが深く天井が高い。千本格子と2階の袖壁が特徴。
箕作家はもとは近江の五個荘の出身で、後に美作に移り住み、阮甫の曾祖父の時代から医家を営んでいました。阮甫は藩医について蘭学を学び、後に江戸に出て幕府でも要職に付き、ペリー来航の際には外交文書の翻訳などにも携わったとか。まさに洋学の街、津山です。
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旧出雲街道の津山宿は、津山城を境に城東界隈と城西界隈に分かれています。ここは城東界隈の大曲。城下町のため、このようにクランク状の武者隠しが設けられています。
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城東界隈の勝間田町。かつての町人町で、ひなびた感じではありますが、古びている印象がかえってリアルで、味わいがあります。人工的に修景せずとも、本来の姿のままでエイジングを重ねていけばよいのですから。
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2階の窓まわりの桟を白しっくいで塗り固めた家のある一画。2階の階高も大きく、千本格子の家並みとは印象がかなり違います。こうした意匠のバリエーションが、ひとつの宿の中でどのように形成されていったのか、考えてみるのも面白いかも。
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外構がれんが造、建物が和風入母屋という和洋折衷の不思議な建築。近づいてみると、「津山洋学資料館」とあります。洋学は江戸時代の近代化に大きな役割を果たし、津山からは多くの洋学者を輩出した。大正9年、妹尾銀行の建物として建てられ、その後は第一合同銀行・中国銀行津山東支店として使用されていました。
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西新町の大隈小路に面した町屋の妻壁には、水切瓦が設けられています。といっても、土佐のそれのようにダイナミックなものではなく、いかにも装飾というイメージ。とてもおしゃれで、センスの高さを感じます。
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和洋折衷の建物。現在は「河野美術館」になっていますが、かつては医院か何かだったのかも。
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奈良市の奈良町で見かける「身代り猿」は、庚申さんのお使いの猿を型どったお守りで、魔除けを意味し、家の中に災難が入ってこないように災いを代わりに受けてくれます。津山にもそういう民間信仰があるのかわかりませんが、美しい街並みに身代り猿はとても似合います。

■岡山県津山市■
文字通り、中国地方の政治経済の中心で、交通の要所。太平洋側、日本海側いずれに出るにも、津山を中継するといってもおおげさではない。津山城の城下町で、津山城址(鶴山公園)桜と紅葉の季節は、その美しさに目を奪われる(に違いない)。出雲街道は市内を東西に横切っている。歴史的な街並みは城東界隈に、寺町は城西界隈に多い。旧梶村家住宅の「城東むかし民家」は、一軒の価値あり。
文化人や芸能人を多く輩出し、オダギリジョーや、B’Zの稲葉クンもその一人。出雲街道沿いの「稲葉薬局」を訪れるファンの姿は今も絶えない。

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新庄-がいせん桜の並木に溶け込む出雲街道の宿

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この新庄宿を彩るのは、何と言っても、この「がいせん桜」をおいてありません。宿のほぼ全区間、道の両側に一定ピッチで植えられています。花見の季節には、さぞかし絶景が見られ、家々の前では宴が盛り上がることでしょう。
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だいたい、人工的な並木というものは日光街道の杉並木に代表されるように、いわゆる一里塚のような意味で設けられることが多く、近代の日露戦争後のこととはいえ、このように宿場に桜並木を設けた事例は、全国的にも珍しいのではないでしょうか。開国間もない日本がロシアという大国との戦争に勝ち、さぞめでたかったのでしょうが、その記念が桜並木とは、なかなか粋なことをしますね。
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道の両側には堀割が設けられ、清らかなせせらぎが心地よく、見れば鯉の姿もちらほら。赤い石州瓦と深い軒先、桜並木とともに、新庄宿の美しい街並みを構成する3要素です。桜並木が作り出す光と影の紋様が美しい。
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雲州候本陣。松平出羽守は参勤交代の際、新庄宿のある御茶屋がお気に入りで、通行のたびに毎年昼休みをされました。この御茶屋は、1666年には松平家指定の御茶屋となり、1757年には本陣に格上げされて以後は、お茶だけでなく、宿泊もするようになったとか。

■岡山県真庭郡新庄村■
出雲街道きっての難所である四十曲峠を控えた宿場町で、江戸時代の最盛期には100軒の家々が軒を連ねていた。鳥取県の米子市から岡山県の津山市をつなぐ、国道181号線沿いの、鳥取県境の近くに位置している。 道の両側を彩る桜並木は、日露戦争勝利の記念に植えられたもので、その名も「がいせん桜」。新庄宿と日露戦争にどういう関わりがあるのか、定かではないが。
江戸時代に作られたという石造の堀割に清流が流れ、現在も生活用水として役立っている。このせせらぎは、平成8年、環境庁により「日本の音風景100選」にも選ばれている。想像するだけで、清らかな音が聞こえてきそう。

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松江-武家屋敷が並ぶ小泉八雲ゆかりの城下町

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松江といえばこの人、小泉八雲ことラフカディオ・ハーン。松江城のお堀脇には、小泉八雲記念館があります。
1850年、ギリシャ生まれ。アイルランド人の父とギリシャ人の母を持ち、2歳のときにアイルランドのダブリンに移り、イングランドの神学校で学ぶ。10代は両親の離婚、左目の失明、父の病死、養育してくれた大叔母の破産など不幸のオンパレードで、19歳でアメリカに渡り、24歳で新聞記者になった。日本に来たのはずっと後で、39歳のときだった。当初は新聞記者として来日したが、縁あって松江の師範学校や尋常中学校で英語を教えるうちに松江の地がたいそう気に入り、武家の娘であるセツと結婚までしたが、冬の寒さに耐えられず、九州の熊本に居を移した。明治37年、狭心症にて逝去。享年54歳。
意外なことに、彼が松江にいたのは、1年と3か月に過ぎなかったのですね。記念館は、原設計は山口蚊象による洋風建築でしたが、昭和59年、武家屋敷群に合わせて和風に改築されました。
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松江城のお堀の周囲に位置する「塩見縄手」の武家屋敷群。城下町では、縄のように一筋に伸びた道のことを縄手と呼ぶそうですが、この塩見縄手は、初代出雲藩主の堀尾吉晴が1607年(慶長12年)に松江城を築城する際、城地の亀田山と北側の赤山を掘削し、内堀と並行するように道を通し、武家屋敷を配したものです。
200石から600石程度の中級武士が入れ替わり住んでいました。広さはだいたい70坪で、式台玄関から座敷に至るパブリック部分と、裏側のプライベート部分を峻別するあたりは、武家屋敷特有のプランです。長屋門と塀をつないだ下見板張りの連続が美しいです。
ちなみに、この界隈に住む中級官僚だった塩見小兵衛が異例の出世をしたことから、後に塩見縄手と呼ばれるようになったとか。

■島根県松江市■
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宍道湖と中海の間に挟まれた、言わずと知れた島根県の県庁所在地。新大橋が北側と南側を隔てており、国道9号線や山陰本線は南側を走っている。空路だと出雲空港でも米子空港でもアプローチでき、JALなら出雲空港、全日空なら米子空港。米子空港は軍用空港が併設され、中海の真ん中を横切る県道338号線は、まさに快感である。
松江城のある城山公園は新大橋の北側にあり、周辺は落ち着いた城下町の佇まいを今に伝えている。船でお堀を一周する「堀川めぐり」は水郷情緒があってよい。
「八雲立つ風土記の丘」や「玉造温泉」が近い。宍道湖の西側にある「平田」には伝統的な街並みが残っている。出雲大社に行った折には、ぜひ立ち寄りたい(一畑電鉄北松江線が通っている)。

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室津-大名行列、南蛮船、朝鮮通信使が交錯した港町

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瀬戸内海に面した海岸線を縫うように走る国道250号線から室津港へと下る坂道に入ると、クルマがすれ違うのもやっとという狭い道の両側に、重厚な板張りの伝統的な民家が軒を連ねています。いかにも保存しています、というのではなく、ごく自然な雰囲気で、生活感の中で町並みが整えられているのに好感が持てます。津和野や萩のような全国区と違い、いかにも通好みといった趣で、観光地化されていない分だけ、静かで落ち着いた佇まいに浸ることができます。
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写真は診療所で、看板は引っ込んだ位置にあり、遠くからは見えません。看板という物体が町並みに与える影響の大きさを改めて実感します。
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「室津民俗館」。屋号を「魚屋」といい、江戸時代に帯刀を許された、姫路藩御用達の旧豪商であった「豊野」家の建物です。部屋数23、総畳数168畳と、かなり規模の大きい町家です。1階入口の吊上げ式二重戸、1階裏側の隠し階段、貴人専用の御成門、2階土間上の虫篭窓など、いろいろな工夫がされています。
室津の歴史は古く、瀬戸内海の宿駅として大いに栄えていました。大名の参勤交代の際の乗船拠点として、廻船問屋の活動拠点として、また朝鮮国王の親書を日本の将軍に持参した朝鮮通信使の寄港地として。瀬戸内を通る船は必ず室津に寄港していたのでしょう。
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「室津海駅館」。江戸後期に、廻船問屋として活躍した豪商「嶋屋」家の建物で、ここには、オランダ人の目で「ムロの港」を描いた絵が掲載されたケンベル著『日本誌』や、参勤交代の際に大名ご一行様が宿泊した本陣「肥後旅館」の模型も展示されています。肥後旅館は、昭和40年代に、老朽化で屋根が崩れ落ち、そのまま解体されてしまったそうです。朝鮮通信使や大名に振舞われた料理が再現され、館内で味わうことができます。
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今も現役の漁港として、多くの漁師たちが海に出て行きます。海沿いの細い通りには、漁船を建造したり修理したりする小さなドックがあります。10気筒はありそうな中型船用のディーゼルエンジンが整備されてましいた。かつては、同じ場所に廻船用のドックがあり、船大工たちが腕を振るっていたのでしょう。板張りの町並みが続く中、急にこんな光景に出くわすのも、室津ならでは。
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かつて大名行列で賑わっていたことがまったく想像できない、静かな通り。天然の良港とはいえ、山が海岸に迫り平坦な土地は少なく、当時はさぞ人口密度が高かったことでしょう。一軒の家の前で、ふと足が止まりました。出格子の内側には、生けられた花などとともに、大きく引き伸ばされたおばあちゃんの写真がさりげなく飾られていました。仲良しだった近所の人たちに今も素敵な笑顔を振りまいています。

■兵庫県たつの市御津町室津■
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兵庫県姫路市内から姫路港に向かい、国道250号線に入り、播州赤穂方面を目指す。途中、世界の梅公園を通る。山陽電鉄網干駅前を通過し、海沿いを道なりに進んでいくと、ほどなく室津に着く。町内は道が狭く、クルマを止められる場所は、漁港に沿って集落をずっと進んだ奥にある、賀茂神社手前の駐車場しかない。
この賀茂神社はたいそう由緒ある社である。桧皮葺の壮大な外観は、三軒社流造りと呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。

このあたりは蛎の名産地で、国道250号線を相生方面に向かう途中、漁師の店があり、とびきりの蛎づくしの食事がとても美味しい。

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倉吉-天女伝説の山のふもとに広がる白壁土蔵群

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倉吉市打吹玉川地区は、重要伝統的建造物郡保存地区に指定されており、町屋が並ぶ本町通りと、白壁土蔵群が連なる玉川沿いの景観がブレンドして成り立っています。観光バスを仕立ててやってくるツアー客に混じって、街並みを探索しました。
地元のボランティアおばさんがハンドマイク片手に威勢のいい声でガイドして回っています。
倉吉はもともと商都で、大阪の淀屋橋を架けた、商売の神様と言われる淀屋清兵衛は倉吉の出身。淀屋は北前航路や蔵米などで大阪経済を席巻していた豪商でした。それから、倉吉にはなぜか仏師が多く、市内を歩くと木彫りの仏像が目につきます。
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本町通りの町屋は、赤褐色の石州瓦、軒まわりには出桁を受ける腕木を出しています。この湾木は海老虹梁(こうりょう)状に曲げられ、よく見ると彫刻が施されていて、ずいぶん手の込んだ独特なデザインとなっています。
通りに面した窓に配した腰格子、繊細な出格子がファサードを格調高く装っています。通りに面した店舗併用住宅が多く、通りに並行するように屋根の棟を設け、棟には来待石の棟石を乗せています。母屋の東側に通り庭を設け、通り庭に沿ってミセノマ、ナカノマ、オクノマの3間を並べるのがプランの特徴。桑田醤油醸造場。明治から続く老舗で、大工を京都に修行にやって作らせたという純和風町屋です。
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手前の町屋は、火災で焼けた「肥料桑田」を、防災センター「くら用心」として再建したもの。伝建にとって火災の問題は最重要ですね。
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倉吉大店会。もとは旧国立第三銀行倉吉店として明治41年に建てられた、方形の建物。土蔵造りの銀行は、当時は珍しくなかったらしいのですが、今は国登録有形文化財として保存されています。外観は当時のままで、屋根の下り棟すそ鬼瓦に、第三銀行の「三」の文字が刻まれています。
1963年まで山陰合同銀行の店舗として使われ、現在は地元の信販会社が入っていて、写真の左側にはATMコーナーなども設置されています(時代は変わっても、やはり金融機関ということですか…ちっともオチになっていない)
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玉川に沿った街並み。白壁と板張りが風景になじみ、雰囲気があります。

■鳥取県倉吉市■
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国道9号線から国道179号線または393号線に入り、蒜山方面に南下する。有名な三朝温泉まではほど近い。

倉吉市の背後には、桜の名所として有名な標高204mの打吹(うつぶき)山がある。ここには天女伝説がある。残された子供たちが天に舞い戻った母を慕い、母が音楽好きだったことから、毎晩この山に登っては鼓を打ち、笛を吹いていた。毎晩のように聞こえくる音色に、いつしかこの名前がついたのだという。
倉吉は、房総と不思議な縁がある。「仁義礼智忠信孝悌」で知られる南総里見八犬伝のモデルとなった里見安房守忠義と8名の家臣は、かつて権力争いに敗れて、ここ倉吉の地に転封され、29歳の若さでこの世を去った。8人の殉死した義士とともに、今も市内の大岳院の境内に静かに眠っている。「八橋往来」には、日本全国を測量して歩いた佐原の伊能忠敬の足跡が残されている。

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広瀬-たたらの神様が宿る月山の城下町

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戦国時代山陰地方を統治していた尼子氏の居城であった月山富田城の城下町。月山の名は地酒の銘柄にもなっており、この造り酒屋の煙突は広瀬の街のランドマーク的な存在になっています。ここ広瀬も「たたら」の伝統に彩られた町で、郊外の西比田には、たたらの神様が祭られている金屋子神社があります。
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広瀬の街並みの美しさは、赤い石州瓦の連続が基本的な構成要素となっています。波形に成形された厨子2階の軒先に注目。格子戸となまこ壁との合成効果で、見る者をうっとりさせる秀麗な仕上がり。
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端正で落ち着いた佇まいの街並み。鉄筋コンクリートなど人工的な建造物が少ないことも要因ではないでしょうか。
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看板建築風の文房具屋さん兼、本屋さん。中を覗いたが、本はあまり置いてなかったような。。。
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懐かしさを感じさせる風景。誰にでもある記憶のひとコマ。ふるさと、という言葉がピッタリ。

■島根県安来市広瀬町広瀬■
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松江市から国道432号線を、安来市からは主要地方道45号線を南下する。『山陰の鎌倉』と呼ばれ、月山富田城の城下町として栄えた。月山は標高184mで、町から見て飯梨川の反対側にそびえ、月山富田城は文治元年(1185年)に、出雲国守護として入国した佐々木義清によって築城された。以後、山名・京極・尼子・毛利・堀尾と、立て続けに城主が変わり、慶長16年(1611年)に廃城となった。中国地方の11カ国を領有した尼子氏の時代が最盛期で、山陰地方の軍事上、政治上の拠点であった。
金屋子神は、たたら製鉄で信仰されている神で、なぜか雨乞いの神でもあり、祭りの際には神前に灯明・榊(松)・神酒・洗米・塩などが供えられた。たたら製鉄はすべて経験と勘に頼る以外になく、たたら場の守護神である金屋子神に対する信仰はきわめて真剣だったという。金屋子神話についてはこちら。

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西条-白壁と石州瓦に彩られた酒蔵が続く街並み

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広島の西条は兵庫の灘、京都の伏見と並び賞される「銘醸地」で、白牡丹、賀茂鶴、福美人、賀茂泉、亀齢、西條鶴、山陽鶴、そして賀茂輝の8銘柄の醸造場が点在しています。鮮やかな白壁とナマコ壁、そしてれんが造の煙突で構成される「醸造系の光景」が味わい深いです。白牡丹酒造の長大な酒蔵は、水切り瓦が白壁に華を添えています。瀬戸内で雨が少ないせいもあるのだろうか、どの白壁も実に美しく保たれています。
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端正な佇まいの賀茂泉酒造。左側は酒蔵です。敷地の奥には、旧県立醸造支場であった「酒泉館」が隣接しています。由緒ある木造伝統洋風建築ですが、飲兵衛が聞いたらヨダレを垂らしそうな(失礼)名前かもしれません。 酒好きにとって、酒の町に住めたら毎日が楽しくて仕方がないでしょう、多分(私は残念ながら下戸ですが)
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賀茂鶴酒造は最も規模が大きく、御茶屋(本陣)跡も隣接しています。純白の白壁、銅製の雨樋、そしてれんが蔵の煙突。一部の隙もない完璧さを感じます。
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れんが造の煙突は、有田など焼き物の街でも見られるが、ここでは酒造会社の広告塔も兼ねています。現代社会に氾濫する不快な広告と違い、風景に自然に溶け込んでいます。広告の原点を見る思いがします。
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山陽鶴酒造は白壁とは対照的に木造の板壁が美しい。ポツンと離れたところにあります。近くには「黒松の井戸」があります。銘醸地だけあって、市内にはこうした名前の付いた井戸があちこちに。
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このような酒蔵に沿った狭い路地がいたるところにあります。醸造系がいわゆる歴史的な街並みの中核をなす事例は多いですが、これほど街並み全体が醸造系で構成されている街は貴重ですね。
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JR西条駅の北側に隣接する松尾神社。ご存知、お酒の神様。
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赤い石州瓦が連なる家並みが美しい。

■広島県東広島市西条町■
中国自動車道の西条ICで下り、国道375号線を東広島方向へ。国道2号線は、道照で国道375号線へ。西条は広島県のちょうど中央に位置し、山陽新幹線の東広島駅や、東広島空港と揶揄される広島空港からも近い。2004年には、世界的な半導体メーカーである「エルピーダメモリ」が進出して話題になった。かつて安芸国分寺が置かれていたところで、現在も広島大学や近畿大学などの文教施設が近くに点在する。

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杵築-石畳の坂道と漆喰塗りの庭園のように美しい道

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杵築の景観を印象付けるのは、坂である。いくつもの坂が名前を付けられ、個性を主張している。神戸や横浜、長崎、尾道などのように、坂というのは平地に比べて、変化に富む美しい空間を見せる舞台装置としてのポテンシャルを備えているが、杵築の場合は、傾斜が緩いことが空間の広がりを感じさせるポイントになっているようだ。重力に逆らって坂道を登ることは、人間にとってあまり嬉しいことではないが、足元ではなく上を見上げながら登れるため、坂道を愉しむことができる。「勘定場の坂」と呼ばれるこの坂は、石畳みの階段に石積みの腰壁と白い漆喰塗りの塀が続き、実に美しい。木々の緑との調和も素晴らしい。不純物のない透き通るような空間が広がる。
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志保屋の坂。階段状ではなく、石畳の坂道になっている。練石積みの擁壁と、実にいい感じで調和している。写真右は、「きつき城下町資料館」として公開されている茅葺の民家。
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表面の漆喰がはげて、土が露しになった土塀。土がえぐれ、中の小舞や「すさ」が露出しているが、白い漆喰塗りとの対比で見るとコントラストが際立ち、なかなか味がある。
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杵築では、道があたかも、ひとつの庭園であるかのように見えてしまう。側溝はすべて玉石で造られ、無味乾燥なコンクリート二次製品に見慣れている私たちにとって、実に新鮮である。それにしても、これほど美しい外構がバリエーション豊かに楽しめる街並みに遭遇することはほとんどないように思われ、歩いていて実に楽しく心地よい。綺麗好きなのだろうか、通りはゴミひとつなく美しく清掃されている。

大分県杵築市
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国東半島の海岸沿いに着陸する大分空港から、国道213号線または大分空港道路で大分市内に向かう途中の右手にある。歴史的な街並みのちょうど中心に市役所があり、駐車場があるので、ここにクルマを停めれば便利である。坂の上から杵築城を望めるポイントもある。近くには、カブトガニの生息地もあるらしい。大分市の南に臼杵市という町があり、名前が似ていて、あやうく間違えそうになった。臼杵も同様に坂道のある城下町で、素晴らしい街並み。
杵築から海沿いに走れば、日本に名だたる別府温泉へ。別府は九州横断道路の起点にもなっていて、ここから日本海側を目指せば、リゾート地の湯布院を経て、林業の町、日田に至る。日田市には「豆田町」という歴史的な街並みが残っている。大分自動車道を走る場合は、ぜひ「途中下車」して訪れたい。

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米子-加茂川沿いの商家の街並みと皆生にそびえる東光園

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国の重要文化財に指定されている近藤家。旧加茂川の京橋のたもとに建ち、現在では母屋と一番蔵、二番蔵、味噌蔵を残すのみ。戦国時代に石見(今の島根県)から移り住み、江戸時代に海運業を営み、藩の米や鉄の回漕の特権を与えられた回船問屋でした。切妻屋根に本瓦、千本格子に家紋入の白壁など、重厚な造りが後藤家の当時の財力を感じさせます。また、主屋の半分近くが板張りと土間で構成されていて、これは廻船問屋ならではの特質。中庭に面して、鴬張りの切目縁がある、と書かれていて、これは見てみたかったのですが。   
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米子は江戸時代、旧加茂川沿いに栄えた商業都市で、今でも下町地区には、古い町並みや寺町が、また川沿いにはいろいろなバリエーションの白壁土蔵群が見られます。川に面して蔵を設けているのは、それだけ船運が盛んだった証しでもあるのでしょう。
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千本格子で飾られた下町の民家。アンティークのお店になっています。
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看板建築風の昔ながらの佇まい「岡本一銭屋」。昔懐かしい駄菓子、玩具所狭しと並べられています。

ところで、米子といえば皆生温泉。山陰きっての景勝地ですが、皆生を訪れたら、これを見ずには死ねない? そう、若き菊竹清訓大先生のの野心作、ホテル東光園です。
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黒川紀章とともに1960年代のメタボリズムの中心であった建築家、菊竹清訓の設計によるホテル「東光園」。 40年の「不惑」を迎えた今も、その新鮮さはまったく薄れていません。間違いなく、氏の最高傑作と思います。同じ空中庭園でも、江戸東京博物館より、ずっと素晴らしいではないですか。最上部の膜シェル構造も、ぱっと見では違和感を感じるかも知れないが、これを取り去ったときを考えると、デザインとして実に効いていることがわかります。
でも、さすがにコンパクトデジカメでは無理でした。
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25歳で事務所を立ち上げ、自邸「スカイハウス」で試行した空中庭園の思想を本格的に実行しました。伝統木造建築に特徴的な柱と貫による構造を鉄筋コンクリートで実現しています。空中庭園を支えるのは、柱と3本の添え柱による独特な構造。建物外部はもとより、建物内部のロビーでも、意匠と一体となった美しさを見せています。今でいうなら、さしずめスーパーストラクチャーの趣き。こんなに手の込んだ構造意匠をデザインする建築家って、すごいの一言です。
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海岸沿いということで、打放しコンクリートの維持は並大抵ではないに違いないですが、訪れたときは実に美しく保たれていました。これもクライアントと建築家の信頼関係がなせる業なのでしょうか。少々値段が張っても、この本館「天台」の空中庭園の和室に泊まり、流政之がデザインしたという和風庭園と日本海の大海原を背に、美食三昧といきたいところでしたが、まことに残念ながら、東光園のそばの古びた木造旅館の一室で翌朝を迎えたのでした。

■鳥取県米子市■
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米子駅北口から、国道9号線を横切り、左手に湊山公園を見ながら道なりに進むと、やがて米子港に出る。下町地区は、その手前のあたり、旧加茂川沿いに広がっている。
米子に来たら、「逆さ大山」で知られる植田正治写真美術館はぜひ訪れておきたい。また、米子といえば、皆生温泉を置いて他にない。豊富な湯量が湧き出す、海岸沿いに広がる優美なリゾートである。皆生から海岸沿いに北に向かうと、水木しげるロードで有名な境港市。ただし、観光バス軍団が殺到するためパスし、港近くの漁師のお店でね新鮮な魚料理に舌鼓を打つに限る。

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龍野-醤油業と武家屋敷が織り成すモノクロームの世界

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揖保川沿いの静かな城下町、龍野。風土記の昔には「日下部の里」と呼ばれていたとか。
龍野と言えば、うすくち醤油ですね。市内中心部の揖保川のほとりには、天正年間(1580年頃)創業の、ヒガシマル醤油の工場がそびえています。揖保川の清流、赤穂の塩、播磨平野の小麦、質のよい大豆が、醤油文化をもたらしました。町全体が、城下町の雰囲気であふれています。静かで落ち着いた佇まい。龍野の街並みとして、旅行雑誌などで取り上げられることが多い、お決まりのアングルです。醤油蔵の板塀に囲まれた狭い路地の向こうに、如来寺がうかがえます。
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ヒガシマル醤油第二工場。純白の白壁と板壁のコントラストが美しく、龍野の街並み全体を司る印象的な景観コードとなっています。揖保川河畔の本社工場が完成して久しい今なお、操業を続けています。
それにしても、各地を旅していると、現役で使われている古い伝統的な建物は、酒や醤油などの「醸造」系が突出しています。ものには、それがつくられるのに適した環境というものがあって、醸造は、発酵という自然現象を利用した伝統的なものづくりゆえ、杜氏によって仕込まれてきた知恵や技術を受け継いでいく上で、建物も古いまま使用され続ける条件が整ったのでしょう。同じ醤油の町でも、東の野田(千葉県)には、近代化ブームで建てられた多くの洋風建築がなお散見されるのに対して、龍野にはほとんど見当たりません。
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龍野はしばしば小京都と呼ばれています。小京都という言葉で飾られる街は全国各地にあるけれど、京都のミニチュアであることが常によいとは限らないわけで、龍野の街は、京の華やかさとは違い、城下町としての素朴さ、質実さを感じさせます。町並みとしてのまとまり性が素晴らしく、街全体があたかも箱庭のように保たれています。
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市内で配布している街並みパンフレットには、龍野の伝統的建造物群を構成する民家38軒の築年、特徴などが一軒ずつ、詳しく書かれていて、おそらく学術的価値も高いのでは。さりげない日常生活の礎に、先人たちが築いてきた街並みへの愛着や尊敬が根付いているのでしょう。

■兵庫県たつの市■
平成の大合併で、龍野市から変更となった。
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姫路市内から龍野に向かう。国道2号姫路バイパス太子東ICまたは福田ランプで国道179号線に入り、林田川を越えると、じきに龍野の市街に入る市の中心は、やはりヒガシマル醤油。うすくち龍野醤油資料館として公開されている(入場料10円)。また、三木露風や国木田独歩といった作家、哲学者とゆかりが深い地でもある。そうめん「揖保の糸」も有名。
龍野は、周囲を田園地帯に囲まれている。農家はほとんどが伝統的な板張り外壁である。関東圏では、屋敷森や蔵などはそのままに、主家だけハウスメーカーの住宅に建て替えられるといった残念な現象が珍しくなくなりつつあるが、龍野ではありえないことだ。

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若桜-蔵が連続する路地とカリヤの街並み

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わかざくら、ではなく、わかさ、と読みます。
地図上は鳥取県ですが、兵庫県・岡山県に接していて、交通の要衝として古くからの宿場町でした。内陸で冬場はかなりの雪が積もるため、東北や北陸に見られるような雁木が発達しています。木造3階建の民家も多数残っています。
隣が更地になって、妻側の全貌が図らずも露わになった住宅。開口部がまったくなく、ロケット型にセットバックした妻壁と、隣家とを隔てる無骨で大仰な隔壁は、通りすがりの旅人を振り返らせるに十分な迫力でした。
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この雁木は、若桜では「カリヤ」と称され、この道も「カリヤ通り」と呼ばれています。軽自動車が置けるくらいのスペースがあり、近所のおばさんたちの井戸端会議や、荷物の出入れ、表通りからの視線の防御など、何かとユーティリティ性に優れた空間です。雨の日のちゃっかり雨宿りにも便利で、要するにパブリック的な要素も兼ね備えた公私の境界的な空間として機能しているのでしょう。2階の虫籠窓と腰壁のナマコ壁の組合せが、デザインに独特のアクセントを与えています。越屋根もなまこ壁で飾られているところ、抜かりがありません。
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駅前を左に曲がると、白壁土蔵群のある細い路地に出ます。軽自動車も通れない路地の両側に蔵が立ち並ぶ様は、まるで工場のこぎり屋根のように、蔵が連続した建屋であるかのような錯覚を生じます。ほぼ同じ規模、同じ高さで、壁面線も綺麗にそろえられており、当局による「建築指導」が行われていたとしか思えません。
考えてみれば蔵は単なる物置であるから、表通りに面して配することはありえないわけで、ウナギの寝床の敷地条件の関係で、たまたまこのような形になったのだろうと思っていたら、実のところ、明治の大火の後、(道幅が狭いという避難安全上の理由で)この通りは土蔵以外の建物や人家を建てることが禁止されたのだとか。後世、これが観光資源になるなんて、思いもよらなかったでしょう。
清流のせせらぎと相まって、佇むだけで心が落ち着きます。

■鳥取県八頭郡若桜町■
若桜鉄道の終点、若桜駅。郷愁をそそる、ひなびた終着駅
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鳥取と姫路を結ぶ国道29号線沿いに位置する。国道29号線は、兵庫県側では因幡街道、鳥取県側では若桜街道または播州街道と呼ばれている。鳥取方面からは、郡家から若桜鉄道とともに左折し、船岡、八東をへて若桜へ。姫路方面からは、中国自動車道を宍栗ICで下り、宍栗(しそ、と読む)市内を延々走り、波賀を経て若桜へ。

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根雨-後醍醐天皇が遷幸・還幸した足跡が残る出雲街道の宿

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参勤交代の際に大名が泊まったとされる本陣跡が残されています。豪商、近藤家住宅を中心に、地味だが味わいのある家並みが続きます。木塀に沿って掘割が流れ、鯉が泳ぐ。湧水もあり、岐阜の郡上八幡に雰囲気が似ているかも。
近藤家は、たたら製鉄で富を築き上げたかつての大富豪で、明治21年(1888年)、伯耆町に製鉄工場を建設し、新しい蒸気機関を利用して当時の数倍の増産を計画したのですが、その後鉄が大暴落し、大正10年、閉鎖に追い込まれました。当時の赤煉瓦造りの煙突は、閉山後、「養老泉」の造り酒屋に引き取られたとか。現在の近藤家は、近藤林業有限会社の表札がかけられており、主屋に土蔵を配した格式ある商家のたたずまいを見せています。
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赤味の石州瓦で葺かれた屋根、切妻平入り、格子窓、虫籠窓、白または黒漆喰で煙り出しのある家が続く街並み。地元の人たちの努力で美しく修景されています。
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日野町公館。明治初年に建築された出店近藤で、近藤家のはす向かいに、つっかえ棒で支えられながら立っています。危なっかしいです。
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根雨宿で唯一の洋風建築、山陰合同銀行根雨支店の建物。昭和初期の建築で、昭和16年、松江銀行と米子銀行が合併し、現在の名前になりました。手前には常夜灯が鎮座しています。
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水琴窟。高さ約50cm、胴回り約110cmの特殊な水がめ。上部の受け皿に水を注ぐと、しばらくして水がめ内部の水面に水滴が落ちて「キン、キン」と、琴の弦をはじいたような澄んだ音色が出てきます。何ともいえない癒しの響き。。。サウンドスケープもレトロな街並みという舞台があってのものでしょう。いろいろな形や大きさの水がめをそろえれば、いろいろな響きが得られるかも。楽器に出来るかな?なわけないか。 

■鳥取県日野郡日野町根雨■
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日野川沿いを走る国道181号線沿いにある、出雲街道の宿場町。後醍醐天皇が隠岐に配流の身となり、その後脱出したことは有名だが、根雨はそのときの遷幸・還幸ルートでもあった。鳥取から岡山にかけて、後醍醐天皇にまつわる逸話や史跡が多く残されている。根雨には金持(かもち)神社というユニークな名を持つお宮様があり、ここにも後醍醐天皇を守護するため、挙兵した金持景藤が必勝祈願をしたと伝えられている。その縁起のよい名前に引かれ、あやかりたい人たちが日本全国から参詣に訪れるとか。

吉田-たたら製鉄を今に伝える古の製鉄地帯

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奥出雲地方は、砂鉄を産するところから、古来より、「たたら製鉄」と呼ばれる技法で和鉄を製造していました。たたら製鉄とは、粘土で築いた炉に砂鉄と木炭を入れ、ふいご(送風機)で風を送って木炭を燃やし、砂鉄を溶かして鉄を生産する方法。その起源はなんと弥生時代にまで遡り、生産量は全国随一で、刀剣や茶器など、全国の鉄需要を賄ってきた、中世日本の製鉄所だったのです。
近代製鉄技術の流入により、大正末期をもって、たたら製鉄の技法は急速に消えていきましたが、「鉄の町」宣言をしたこの吉田町には、今も当時をしのばせる遺構が残されています。また、かつてこの地方の製鉄業を一手に仕切り、専用船で鉄製品を松江に運び捌いていた鉄山師の大富豪、田部(たんべ)家の蔵も並んでいます。
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鉄山師の家々が並ぶ吉田町の街並み。右は「鉄の歴史博物館」。日本鉄鋼連盟(かつての鋼材倶楽部)が編集した、たたら製鉄のビデオ(30分ほど)は必見。大正末期に廃れた、たたら技術を復活させようと、昭和40年代、最後のたたら職人に再び、鉄作りを行ってもらい、その模様を収録したもの。鉄という工業製品が、人の手を使い、文字通り丹念に手作りされている様子がわかります。
土で築いた溶鉱炉を使い、砂鉄から次第に純度を上げていく精錬作業は、気の遠くなるような作業で、職人たちの長年の間と知恵、そして繊細さと粘り強さなしに到底なしとげられるものではなかったでしょう。専門家によれば、彼らが精錬した鉄は現代の製鉄技術では困難なほど純度が高かったそうです。
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鉄の歴史博物館の収蔵庫として使われている、茅葺民家。鮮やかな石州瓦葺の下屋との調和が美しい。
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吉田の街並みから山奥に入ったところに、菅谷山内という集落があります。
川で砂鉄を選別する者、炭焼きをする者、そして、製鉄技術者などで構成されていた集落で、「山内」とは製鉄施設と職能集団の集落を意味します。
クルマ1台やっとという、片道1車線の細い川沿いの道を10分ほど走ると、茅葺の屋根が見えてきます。何だか秘境っぽい雰囲気です。たたらが行われていた「菅谷高殿」が現存していて、今でも中での製鉄の様子をうかがうことができます。このような山奥でひっそりと鉄作りが行われていたということ自体、にわかには信じられません。砂金を選別していた近くの小川は茶褐色に染まっていました。
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菅谷高殿。1571年から大正10年まで操業していたというから驚きです。
中にはかつての溶鉱炉が復元されています。製鉄には1,300℃以上の高熱が必要で、ふいごによる強力な風力を大量の燃料(木炭)に向けると、すさまじい火柱が立ち、生半可な建物では火が燃え移ってしまいます。そのため、この高殿は4本の高強度の柱を立てて、可能な限り天井高を高くし(GLから棟まで8.6m)、屋根を開閉式にするという「ハイテク」が施されていました。日本に現存する唯一の高殿です。18.3×18.3mの正方形平面で、屋根は柿葺で土壁の破風を持っています。溶鉱炉から引き出した鉄を急冷するために投げ込んでいた池も、高殿の前に残存しています。
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元小屋。天保4年の火災の直後に再建された桧皮葺で、事務所兼作業場として使われ、風呂場、台所などの生活機能も有していました。間取りは普通の農家と同じそうです。

■島根県雲南市吉田町吉田■
吉田は中国地方のちょうど中間に当たり、いろいろなルートがあるが、いずれもかなりの走行を要する。中国自動車道からは三次ICを下り、国道54号線で赤来、掛合と北上し、掛合で県道8号線へ。または、ホリエモンの選挙で有名になった庄原ICで中国自動車道を下り、国道432号線を北上し、仁多で県道269号線へ。出雲方面からは、国道9号線から宍道で国道54号線に入り、三刀屋木次を経由して掛合から県道8号線へ。平成の大合併で、雲南市に編入された。町内には、鉄の未来博物館という近代的な施設もあるが、個人的には菅谷たたらを是非とも見に行かれることを薦めたい。
隣接する奥出雲町の出雲三成には、松本清張の「砂の器」で有名な亀嵩があり、駅では亀嵩そばも食べられる。ただし、映画のロケは別の駅で行われた。
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吉良川-水切瓦、土佐漆喰、いしぐろが織り成す景観

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腰部分には板を縦張りし、白壁に水切瓦を何重にも設けるという独特の様式が、建物の立体感、ボリューム感を高めています。土佐地方の伝統ですが、奈半利以上に、街並みとしての連続性が保たれていることが、旅人の心をまるで異国の世界にいざなうかのよう。
「こんにちはー」。。。街の人たちは皆、街をうろつく旅人に笑顔を向け、挨拶してくれます。写真を撮っていれば、自転車で通りかかった人は立ち止まり、撮り終わるのを待っていてくれます。自分たちの街に誇りを持ち、自分たちの街を遠くから見に来てくれる人たちを大切にしよう、そういう気持ちが伝わってきますね。そんな人たちだからこそ、これだけの街並みが維持できるのでしょう。
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なぜ、このような水切瓦の意匠が土佐で発達したのでしょうか。
水切りとは本来、雨水を直接壁面に当てないための工夫ですが、台風銀座の南国土佐では、雨は上からではなく横から、時に下から打ち付けるため、軒だけではとても用を成さないし、軒を出したところで強風に持っていかれてしまいます。水切瓦の直下に付着した黒い汚れが、雨の当たり方を如実に物語っています。水切瓦は、壁に直接当たる強い雨と風をスポイルすることで漆喰壁や軒を保護するとともに、それ自身が壁を補強する働きもしているのかもしれない、などと旅人ならではの勝手な想像を試みたり。
まあそれはともかく、この躍動感と力強さがすべて。水切りという本来の機能が様式美として昇華した、ひとつの帰結と言えるかもしれません。家主の普請趣味や、棟梁の遊び心が、一定の様式を尊重しつつ、許されるぎりきりのところで表現されたデザインなのかも。
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丘地区では、強風から家を守るため、「いしぐろ」と呼ばれる石垣塀を巡らせています。石垣塀には河原や浜の石(=玉石)を使っていて、半割り石や玉石などを使い分け、積みかたもいろいろバリエーションがあって、見る者を飽きさせません。こういう塀は関東ではまず見られないだけに、水切り瓦とあいまって、強烈な印象を焼き付けられます。

■高知県室戸市吉良川■
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高知市から高知湾沿いに室戸を目指して、国道55号を走り続ける。ごめん・なはり線の終点、奈半利を過ぎてしばらく行くと、やがて国道沿いに「吉良川の町並み」と書かれた表示が出る。クルマを止めて一歩路地に踏み入れば、そこはもう現代とは別世界。一気にタイムスリップである。旧土佐街道沿いの「浜地区」と、斜面を少しあがった「丘地区」があり、隣接している地区同士ながら、際立った景観を持つ。
吉良川は、もともと豊富な山林資源を背後に持ち、材や薪などを京阪神に拠出してきた。鎌倉時代の「京都石清水八幡宮文書目録」にも、その名が登場する。その後、明治から大正にかけて、製炭技術の進化とともに、良質な備長炭を京阪神地方に売り、大いに繁栄したとか。平成9年、高知県下で唯一、重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

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平福-宮本武蔵が13歳にして初決闘を行った地

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土蔵の連なりを橋から眺めるこのアングルは、もっとも平福らしさを味わえます。因幡街道は佐用川に沿っていて、船運も盛んで、家々の石積み擁壁には船から荷物を引き上げる階段がくりぬかれ、玄関よろしく戸が設けられています。
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因幡街道沿いに静かに転がる平福宿の街並み。白塗壁と板張りが続く街並みは、昔のままの姿をよく維持しています。川側から見た土蔵の街並みと対照的なのが面白いですね。いわば、2つの顔を持つ街並み、といったところ。敷地が街道と川の双方に面していて、どちらからでも出入りできたのでしょう。訪れたのが平日だったせいか、とにかく静かで、ほとんど人に出会いませんでした。
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街角に吊り下げられた大きな提灯が、旅人を迎え入れてくれます。
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近畿の駅100選にも名を連ねている、智頭急行平福駅。実にどっしりとした佇まい。単線のため平福駅で上り電車と下り電車の通過待合せがあります。駅舎にカメラを向けたら、停車中の車内の人が手を振ってくれました。のどか~。
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宮本武蔵の郷。いわば、武蔵のテーマパークのようなもの。「宮本武蔵の生家」は、火災により焼失し、昭和17年に建て帰られたものですが、大黒柱の位置は当時と変わらないとか。
「兵学の指南役として新免家に仕えていた父、無二斎が、その新免という姓を主家から許された、盛りの時代に立てた屋敷で、英田川の河原を下にした石築き土塀まわしの家構えは、郷土には過ぎたものであった」という吉川英治『宮本武蔵』の一節が掲げられています。屋敷の中には道場があり、ここで剣道の指南をしていたそうです。

以下、武蔵のことを資料からちょっと引用。
武蔵は天正12年(1584年)、父・平田無仁斎(むにさい)、母・於政(おまさ)の間に生まれましたが、間もなく生母と死別、無仁斎は利神(りかん)城城主の別所林政の娘、率子(よしこ)を後妻に迎えます。この義母に育てられた武蔵は、7歳のとき父と死別、母・率子は平福に帰り、田住政久の後妻となりました。幼少の武蔵は母恋しさのあまり、しばしば義母のいる平福を訪ねます。9歳のとき正蓮庵の僧・道林坊に預けられ、その訓育を受けます。道林坊の弟・長九郎により剣を習うや、その力は著しく伸張します。
武蔵13歳のとき、運命的な初決闘が、ここ平福のはずれ金倉橋のたもとで行われました。新当流の達人・有馬喜兵衛なる兵法者の、決闘を誘う挑発的な高札に応じて、木刀で対峙するや、一刀のもとに喜兵衛を打ち倒し、いずこともなく去っていきました。出奔の一説には、佐用郡一の古社・佐用都比ツメ神社に参篭、武運を祈願の後、諸国修行に旅立ったとされています。

■兵庫県佐用郡佐用町平福■
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兵庫県赤穂市から、国道373号線をひたすら北上する。途中、中国自動車道の佐用I.C.を通り、並行して、佐用川が流れ、智頭鉄道が走っている。智頭急行は、東海道線の上郡駅から、因美線の智頭までを結ぶ第三セクター路線で、京都から倉吉まで特急「スーパーはくと」が走っているここ平福は幼少の宮本武蔵が初めて決闘を行った地で、宿の外れには、その石碑も建っている。平福から北上すると宮本武蔵の郷があり、生家が残されており、智頭鉄道の宮本武蔵駅があり、武蔵ファンにとっての聖地

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郡上八幡-美しい清流と郡上踊りの静かな城下町

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郡上八幡には、美濃や高山のような文化財的な建築物や街並みよりも、街全体として古くからの姿をよくとどめていることが印象深いです。
写真は職人町で、その名の通り、職人たちが多く住んでいた一角。質素な生活をしていたと考えられますが、どの家も袖壁卯建を付けていて、綺麗にそろっています。軒先には、職人町と書かれたブリキのバケツがぶら下がっています。
古い家並みを前提として人々の生活があるのではなく、人々の生活の中に古い家並みが根付いています。ニワトリが先かタマゴが先かという話かもしれませんが、これは貴重なことで、それこそが街並み保存の原動力と言ってもいのではないでしょうか。通りの両側に、豊富な湧水が流れる音が心地よい。
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柳町筋の街並み。こちらは武家屋敷があった地区で、職人町とは趣が違います。
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水の街、郡上八幡。市内のいたるところで水が湧き、清流が流れ、このような親水スペースが設けられています。歩いていると、いつもどこかで水が流れる音が聞こえてきます。郡上八幡を舞台とした企業CMもしばしば見られますね。嫌なことや考えたくないことがある時、水の流れるのをぼーっと見ているだけで心が和み、すっきりすることがあります。水に流すとは、よく言ったもの。
清流に洗われる街、郡上八幡。

郡上八幡のシンボルとも言うべき、「宗祇水」。夏は冷たく、冬は温かい清水で、古来より人々に愛用されてきました。それにしても、何かいわくありそうな名前です。話は文明年間にさかのぼります。時の郡上城主の東常縁は、藤原定家を祖とする「二条派」の武家歌人として知られた存在でした。連歌の宗匠であった飯尾宗祇は、古今集の秘事を東常縁に伝授してもらうべく、山深い郡上を訪れます。その際、宗祇はこの清水のとりこになり、泉のほとりに庵を構えて住むようになったことから、やがて宗祇水と呼ばれるようになったとか。
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宗祇水へと下りていく坂道(小駄良川の反対側から見たところ)。提灯がぶら下がっています。
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小駄良川を背にして見たところ。宗祇水へは橋のたもとから階段でおります。
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吉田川や小駄良川を中心に街が形成されている郡上八幡では、橋は景観形成上の重要なキーとなっています。平成11年に竣工した「新橋」は、東京の著名な景観デザイナーとのコラボレーションでデザインされました。落ち着いた佇まいが、背後に見える和洋折衷洋風建築(郡上八幡旧庁舎記念館)と実によく調和しています。真夏には、この橋の上から約30m下の吉田川に、子供たちがざぶんと飛び込むのですが、下を見るとかなり高く、相当な度胸が要求されそう。目をつむるしかないか。。。
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街路灯には、お盆の8月13-16日の4日間、徹夜で踊り通すことで有名な「郡上踊り」がデザインされています。7年前、お盆にに訪れた際、その熱気に圧倒されました。見物人がどんどん踊りの輪に参加していく様は、ひとつの渦が町全体を包み込んでしまったように見えました。割と単純な踊りなので、初めてでもすぐ参加できます。また、お盆には、小駄良川の両側に蝋燭がずらりと灯され、幻想的な光景が広がります。
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静かで落ち着いた佇まい。包まれるような雰囲気。

■岐阜県郡上市八幡町■
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市町村合併により、郡上郡八幡町から、郡上市八幡町になった。東海北陸自動車道が開通し、東名高速道路から一気に行けるようになったが、時間に余裕があれば、国道156号線で山あいをのんびり走るほうがよい。市内は道が狭く、生活道路であるため運転にも気を使う。クルマは駐車場に入れてレンタサイクルが便利。
郡上八幡は城下町。郡上八幡城は昭和8年に再建された木造城で、山内一豊と妻千代の銅像が立っている。観光地ではあるが、市内に大きなホテルや旅館はあまりなく(温泉が出ないためだろうか)、民宿が多い。いずれも和風で古びた感じの宿が多く、料金も格安で、料理も美味しい。お盆のシーズンには、踊り下駄を貸してもらえるが、全国各地から人が集まるので、宿の予約はお早めに。

テーマ : レトロを巡る旅
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古民家での晴耕雨読な暮らしに憧れる軟弱な熊谷都民。

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