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築地-Now Reading。。。

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テオドル・ベスター/著 和波雅子・福岡伸一/訳
木楽舎
2007年1月発行 643ページ
価格 3,990円(税込)

じつに面白そうな本です。
外国人の目に、築地ってどう映るんだろう。
そもそも、私たち日本人は、築地について、一体どれだけ知っているのだろうか。ミーハーなテレビ番組につられて、腹いっぱいマグロを食いに出かけるだけじゃん。何も知らない。
言われてみれば、そのとおり。
はるか海の底から釣り上げられ、港に水揚げされ、高速道路でここ築地に運ばれ、セリにかけられ、解体され、梱包されて料亭やスーパーへと流れていく。東証にも匹敵する(と勝手に思っている)そのダイナミックな取引の現場を前にして、ただマグロ食ってるだけで幸せなんて、ちょっとノーテンキだよね。もうちょっと、探究心をもって築地に接してみよう。築地を一周し、自分なりにいろいろと見たり聞いたり考えたりして、それを自分なりの築地感想文にまとめる、てのはどうだろうか。そのうえで、本書を読んでみる。面白いかもしれない。この著者は、自分が気づかなかったこんなことに着目していたのか~とかね。

いずれにしろ、ただ読むだけじゃあ、つまらないな、なんて思いつつ、もう3週間も積んでいるのであります。マグロ食いながら読もうかな、なんて。というわけで、感想文はいつになることやら。

【内容】
経済、流通、食文化、消費、制度、社会、伝統歴史から重層的かつダイナミックに初めて描かれた築地魚市場の全貌。「アメリカ人類学協会経済人類学部門2006年最優秀賞」受賞。「アメリカ人類学協会東アジア部門2005年特別文献賞」受賞。
【目次】
第1章 東京の台所
第2章 掘られた溝
第3章 埋立地が築地市場に変わるまで
第4章 生ものと火を通したものと
第5章 見える手
第6章 家族企業
第7章 取引の舞台
第8章 丸


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テーマ : レトロを巡る旅
ジャンル : 旅行

レアな雑誌

昨日紹介した地方・小出版社専門サイトの中に、レアな雑誌と題した、いかにもくすぐるようなタイトルのページがあります。で、どんな内容かといいますと、たとえば、

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●『季刊札幌人 2007年春 13号』
→札幌が出版の都だった
出版の中心であった東京は、空襲によって壊滅的打撃をうけ、その機能を失った。一連の東京大空襲で都内の出版設備の9割が壊滅したといわれる。そのため、戦中から軍部は、北海道をはじめ、長野、仙台、新潟、九州への出版疎開を奨励していた。敗戦後3ヶ月には講談社が札幌入りした。印紙や株券などの証書類を発行する東京証券印刷も北海道に移ってきた。朝日新聞社の『週間朝日』、毎日新聞社の『サンデー毎日』も札幌で印刷されていた。本と活字の歴史と現在を紹介します。
特集 本と活字の楽園都市
 北海道および札幌の印刷史
 活字と印刷史
 札幌が出版の都だった頃
 活字の世界
 ほんやら図書館の地元博物館
荒井宏明編・札幌グラフコミュニケーションズ刊・A4判・82頁 600円

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●『うるま 2007年5月号 110号』
 →『うるま 2007年4月号』(特集竹富島)大人気です。品切れのお店がではじめております。書肆アクセスに少部数在庫してます。『うるま2007年2月号 107号』(特集宮古島)は、品切れとなっていますが、少部数ですが在庫があります。5月号は、うるまでははじめての『沖縄映画特集』です。沖縄の映画が大好評です。ビギンの青春ストーリーを描いた最新映画「恋しくて」の世界を覗くと…
 石垣島ロケ地紹介
 恋しくてインタビュー
 石垣島のおバカな青春
 沖縄探索!ロケ地マップ
 沖縄映画キャスト
 沖縄映画発展プロジェクト
 絶対注目!新作沖縄映画
 DVDで観る沖縄映画『あゝひめゆりの塔』から『真昼ノ星空』まで紹介
『うるま』で沖縄映画を知り、堪能できます。盛だくさんで読み応えありました。
浦崎晃編・三浦クリエイティブ刊・A4判・72頁 780円


と言った類いです。いずれも地元ネタ満載の地域限定マガジンですが、たとえ内輪で勝手に盛り上がっているだけとしても、よそ者のイチゲンが読んで絶対に楽しいはずなのです。最近、こういう地域限定雑誌が全国的に増えているようですね。首都圏でも、湘南地域の限定マガジンがあって、手にしたことがありますが、これがかなかお洒落でアートっぽくてグッドなのです。単なるタウン誌とは一線を画していて、よく取材してあり、結構なスポンサーもついています。やはり文化を知るには、雑誌がいちばん。いくらネットが発達しても、なかなか血の通った記事には出会えないもの。

 もちろん、「レア」には地域だけではなく、宗教や文化など、さまざまな「レア」雑誌があります。知り合いの先生が「お墓」の業界紙に連載を書いたことがあるそうですが、原稿料の支払いもいいし、けっこう楽しかったそうです。

 最近の書店は、業界用語で言う「パターン配本」というやつで、全国どこにいっても同じ本にしかお目にかかれず、味気ないことこの上ありません。やはり、マイナー本、マイナー雑誌を通して、本当の「地域発」の情報やメッセージに触れ、少しでも旅を充実したものにしたいですね。

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地方・小出版社の本に出会うには

 街並み紀行には資料が欠かせません。日本各地に点在する街並みの情報を収集するには、いくらインターネットが発達しているとはいえ、やはり紙に書かれた資料が最も頼りになります。中でも、地方出版社が刊行している本は貴重です。しかし、それらの多くは全国の書店ネットワークに流通していないため、なかなか目にする機会がありません。

 東京の本の町、神保町には、そうした地方出版社・小出版社の本を専門に扱う書店があります。北海道から沖縄まで地域ごとに棚が構成され、これが実に楽しいのです。ウェブサイトもあります。私は店頭で買うことがほとんどですが、サイトで見ると店頭では気づかなかった本に出会えたり、ネットならではの探索の仕方がありますね。ぜひ、行ってみてください。へえ、こんな出版社があって、こんな本があったんだ、という発見に出会えます。最近の自費出版ブームも、一役買っているでしょう。本当に日本人というのは、活字好きなのですね。
 ちなみに、同サイトに今日の時点でアップされている新刊のうち、私的には次の2点に興味を持ちました。

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世間遺産放浪記
● 藤田 洋三 著
石風社 刊
判型:A5変
定価2,415円(本体2,300円+税)
▼働き者の産業建築から、小屋、屋根、壁、職人、奇祭、無意識過剰な迷建築まで庶民の手が生んだ「実用美」の風景。痛快無比の247葉。

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長崎昭和レトロ寫眞館
● 堺屋修一 写真・永松 実 文
長崎新聞社 刊
判型:B5変
定価2,100円(本体2,000円+税)
▼団塊の世代の方々には懐かしい思い出である昭和30年代。撮りためた幾多の写真から厳選した116点に、当時の世相の解説を加えて紹介する。

 長崎新聞社はわかるけど、石風社ってたぶん知らない人のほうが多いでしょう(石風社さんに大変失礼なことは重々承知しつつ)。それに、世界と世間をひっかけて、どこにでもある(であろう)建築の機能性という点から人々の知恵の痕跡を探り出そうという試みは、やはり小出版社だからこそ通った企画かもしれない。無性にページをめくってみたくなりませんか。長崎のほうも、どうしても原爆という先入観で見てしまいがちだけど、原爆とは違った昭和の原点みたいな写真が見れるとしたら、これはぜひ見ておきたいと思うのです。
 立ち読みが出来ないサイトでは、お金をはたいて買うべきかどうか、常に厳しい判断を迫られる。スタバでコーヒー○杯分だよなあ。。とか(笑)。この緊張感こそ、ネット買い物の醍醐味のひとつでしょうか。開封してパラパラめくってみて、面白くて一気に読んでしまうか、それとも「なーんだ」とがっかりするかは、届いてからのお楽しみ。

 読者にとっては、基本的に、いい本を読むのに、それがどこの出版社かってほとんど関係ない。あのハリー・ポッターだって、社長兼社員の女性が一人で始めた会社であれだけの成功を収めたわけだし。小出版社って、大手出版社が見向きもしないようなネタで本を出したりして、マイナーなだけに、探す楽しみもひとしおです。

 地方に街並み探索に出かけたら、ぜひ、その土地の書店に立ち寄り、地域・風土関係のコーナーに行きましょう。たいてい、地元新聞社や地元出版社が出している、その地域限定の本があります。私のお宝は、新潟県の秋山郷の某温泉旅館のお土産コーナーに飾られていた、秋山郷をめぐる古い本の復刻版。他で買うことは出来ません。そこに行かなければ買えない本って、デジカメの画像以上に、旅の想い出になりますよ。それに後々の財産にもなります。おすすめです。


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廃墟の美学

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 しばらく前、「廃墟」がブームになったことがありますね。確か、20世紀が終焉を迎える頃、だったのではないでしょうか。長崎の「軍艦島」を舞台としたドラマが放映されたり、書店で廃墟関係の写真集がよく売れたり。そして、その「廃墟熱」は今も、静かに続いていると思います。

 廃墟はなぜ、人々の心の琴線に訴えてくるのでしょうか。

 卑近な例で申し訳ありませんが、かつて私が中高生の時代を過ごした家を、数十年ぶりに見たことがあります。買い手がつかないのか、数年は放置されていました。家族やイヌと過ごし、友達と遊んだ想い出の詰まった大切な家。それが今、外壁にはツタがからまり、フェンスは錆びてボロボロ、まさにプチ廃墟でした! このショックは言葉ではなかなか言い表せるものではありません。主たちの生活がなくなった瞬間から、建物は廃墟への道を、まさに坂道を転がり落ちるように猛烈なスピードで進み始めます。見放された空間の「死」ですね。

 本書は「廃墟の美学」であり、形而上学的な「美学」の世界から廃墟にアプローチしたもので、きわめて物質的な廃墟観を前提にすると面食らうことになります。でも、私自身、こういう論考がどこかにないのかな、ということは漠然と考えていました。ネット上には、いわゆる廃墟サイトがたくさんあるけれど、ほとんどは興味本位の探検趣味で、高齢化が進み経済活動が停滞すれば、彼らを喜ばせるようなこの種の廃墟は増加の一途を辿るに違いありません。アメリカあたりに行けば、産業遺産と呼べるような工場廃墟はあちこちに放置されています。
 廃墟にどう向き合うべきか、いずれ都市政策上の重要課題になりかねないところまで来ているのではないでしょうか。

 いつものように、前提が長くなりすぎました。

 私としては、本書で2つのショックを受けました。
 第一に、本書を開いて早々に出てくるのは、詩人であり建築家であった立原道造です。彼は東京大学建築学科の卒業論文で、廃墟を取り上げていました。「私は『死』あるいは『壊れやすさ』に結び付けられた場所において『建築』なるものを見ようとする」と書き、西洋哲学を引き合いにして「うつろい」「滅び」の感性を論理化しようとしていた、とか。24歳にして夭逝した自らの運命を象徴していたのでしょうか。本書では単なるイントロでしかありませんが、私は立原道造の卒業論文を無性に読んでみたくなってしまいました。

 そして第二が、モンス・デジデリオです。1966年に澁澤龍彦氏により紹介されるまで謎に包まれた16~17世紀の幻想画家で、漫画家の藤子不二雄のように2人の画家の合作だったらしいことはわかっていますが、多くの作品が所在不明で、日本には一枚も残されていません。

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 「聖堂を破壊するユダ王国のアーサー王<聖堂の倒壊>」と題されたこの絵は、デジデリオの特徴がよく現れた作品として、本書でも引用されています。多くの風景画では、建築は単なる背景であり、それ自体が主体になることは少ないですが、デジデリオの絵では、空間としての「死」を迎えつつある建築それ自体が主体であり、人間はディテールの一部として描かれているにすぎません。難しい美術評論的なことはわかりませんが、ダリやデルヴォーなどの近代のシュルレアリストと比べて技巧的でない分だけ、建築の廃墟性がダイレクトに伝わってくるように思えます。

 風景と廃墟。廃墟の風景。。。謎に満ちた、シュールで、魅惑的な、でもちょっと怪しくて危なくて、とても深い世界だなーという気がします。

 結局、立原道造とデジデリオの衝撃が大きすぎて、残りはあまり頭に入りませんでした(著者には申し訳ないけど)。デジデリオの作品集の復刻版も検討されているようなので、これには大いに期待したいですね。
 欲を言えば、写真をもう少し大きくレイアウトしてほしかったなー(4Cカラーとは言わないまでも)。

谷川渥著
集英社新書 660円

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鉛温泉-藤三旅館

岩手花巻南温泉峡 鉛温泉藤三旅館

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花巻市から豊沢川沿いに進む。鉛温泉は花巻南温泉郷の一番奥にあり、藤三旅館は一軒宿。旅館部と自炊部で玄関が分かれている。手前の坂の上からみたところ。

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向かって左側の「旅館部」に下り、木造3階建の古風な建物の玄関を見上げる。

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こちらは向かって右側の「自炊部」の建物。玄関、建物、温泉は、旅館部とは別になっている(一部の浴槽は旅館部と共用)。中には売店があり、必要なものは何でもそろう。長逗留の湯治客の人たちが、水場で炊事や選択などの作業をしている。花巻温泉には、他にも湯治向けの温泉宿がいくつかある。

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昭和16年建築のケヤキ造り3階建。ラッキーなことに、3階の川側の角部屋という、宿で最もいい室に通していただいた。室の二面に廊下と開口があり、建具はすべて木製のまま。虫が異常発生しているとかで窓は開けられなかったが、それでも清流のさわやかな音が一晩中絶えることはなかった。実に心地よいBGM。「何もしないでいる贅沢」を心行くまで味わえる至極の時間。

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障子の透かし彫りが、うららかな秋の陽光に浮き上がる。かつて田宮虎彦は、この藤三旅館の玄関上の3階山側の室に1か月のあいだ長逗留し、鉛温泉を舞台にした小説「銀心中」を執筆した。今でも「田宮虎彦の泊まった部屋」として人気がある。

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廊下と同様に、赤い絨毯が敷き詰められた階段。長い年月で磨かれた手すりは黒光りしている。

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「白猿の湯」は鉛温泉の象徴ともいうべきもの。2層吹抜の大きな空間で階段を伝って下に下りる。浴槽は深く、130cmくらいはあろうか。底には玉砂利が敷かれていて、立って入浴する(写真は公式ウェブサイトから)。今から約600前、ここの温泉宿主、藤井家の遠祖が高倉山麓でキコリをしている時、岩窟から出てきた一匹の白猿が、カツラの木の根元から湧き出す泉で手足の傷を癒しているのを見た。これが温泉の湧出であることを知り、一族が天然風呂として用いるようになった。そのため「白猿の湯(俗名 桂の湯)」と呼ばれるようになったとか。

所在地 岩手県花巻市鉛字中平75-1

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鎌先温泉-一條旅館

鎌先温泉 時音の宿 湯主 一條

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東北本線の白石、または東北新幹線の白石蔵王からクルマで20分ほど走ると、山の中に鎌先温泉がある。
『600年前、ひとりの農夫が前燈貝森の辺りで水を求め沢辺に降り、持っていた鎌の先にて木の根、岩角をかき分けたところ、自煙立ち昇るいで湯が沸き出した。そこで農夫は里人とともに湯小屋を設け、湧き口の上に薬師の祠を建て地主神とともに祀った』という故事が伝えられている。そして、その鎌を賓物として保存しているのが、鎌先温泉きっての一條家。一條旅館では、木造一部4階建の本館が、今も当時のままの形で使われている。入母屋の妻面には、大きく一條旅館の屋号が。

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かなり急な傾斜地に建てられていて、下部は部分的に木造4階建である。宮大工が腕をふるい、大正末期から昭和初期にかけて建てられた。それほど装飾性はなく、多くの湯治客を収容することを意図した合理的なつくりで、1本の釘も使わずに、1本の通し柱によって建てられている。
雰囲気としては、東京大学の近傍にある木造3階建の下宿屋、本郷館に似たものを感じる。それにしても、保存状態は素晴らしい。宿のパンフレットは近代的な新館を中心にして構成されているが、湯治客向けの本館も大切にしていることがうかがえる。

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一瞬、近代建築のガラスカーテンウォールに通じるものを感じる。

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昔の鎌先温泉の全景。一條旅館は一番奥にある。

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昔の一條旅館。現存するのは本館くらい(上記2点はいずれも公式ウェブサイトから)。

所在地 宮城県白石市福岡蔵本字鎌先1-48


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三朝温泉-旅館大橋

山陰三朝温泉旅館大橋

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玉造温泉や城崎温泉と並んで、山陰の名湯として知られる三朝温泉。そこに、和風建築の粋を極めた木造旅館がある。その名は「旅館大橋」。日本建築として最高のものを目指し、近郊各地の銘木を集めて、昭和7年に完成した。平成9年、国有形文化財に登録される。「本館」、「離れ」、「西離れ」、「大広間」、「太鼓橋」の5か所が対象で、このようにほぼ全館が登録文化財というのは全国的にも珍しいという。

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旅館としての規模はかなり大きく、全長は120mにもおよび、通り側から全景をカメラに収めることはとても無理。

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三徳川に沿って広がる全景は、風格を感じさせる(宿のパンフレットからキャプチャしたもの。下のサムネイル画像をクリックすると大きく表示される)。公式ウェブサイトからは「永久保存版」と書かれたこのパンフレットをPDFでダウンロードすることもでき、宿の建物へのこだわりが随所に見て取れる。

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正面玄関。

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太鼓橋の外観。

中に上がれば、それこそ和風建築の粋が集めれている。あがり框には肥松の一枚板がおごられている。天井・床柱き各室ごとに違った材を配し、銘木の種類によって、南天の間、桜の間、竹の間、桐の間などと呼ばれている。同じ部屋はまったくないという。


所在地 鳥取県東伯郡三朝町三朝302-1

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法師温泉-長寿館

法師温泉長寿館

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東京から国道17号線(三国街道)をひたすら走る。かつての面影を色濃く残す下新田宿、布施宿、今宿などを経て、猿ヶ京温泉を過ぎると、やがて細い急な坂道を下りる。坂道の途中にはかつての永井宿があり、下りきったところを右に曲がれば、法師温泉へとつながる一本道である。

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国鉄の「フルムーン」のCMで有名になった法師温泉。その建物は、平成18年、国の登録有形文化財に指定された。もちろん、日本秘湯を守る会にも登録されている。手前が「本館」で、桁行30m、梁間14m。杉皮葺、軒せがい造で、玄関上部に切妻の屋根を付け、屋根には煙出しが設けられている。右に見えるのが比較的新しい客室棟の「法隆館」で、登録文化財指定の「別館」は本館の奥にあり、こちらは桁行37m、梁間9m、鋼板葺。

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「法師乃湯」は、桁行12m、梁間10m。寄棟で杉皮葺。屋根は和小屋に一部トラス 棟上に櫓状の換気口を設けている。軒は四周せがい造、外壁下見板張り、アーチ窓といったところ。

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法師温泉の起源は、川に流れ込むお湯を板で囲ってその外を石垣で保護しただけのものだった。「法師乃湯」は、湯船の床が玉砂利となっていて、その下から湯が湧き出してくる。そう、これがかつての川床の名残り。
公式ウェブサイトには面白いことが書かれていて、この湯を塞き止めたときから温泉が川を迂回させ始めたのだとか(人間が温泉を利用することによって川が逃げていった)。現在の川底より「法師乃湯」の底の方が600~800mmも高いのだそうである。1年に1mmずつ川底が深くなると仮定して,1000~1200年の歴史がある、との結論だ。
平安時代が始まった頃から、懇々と沸き続けているわけか。
なるほど。。。 

所在地 群馬県利根郡みなかみ町永井650

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瀬見温泉-喜至楼

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山形県の最上温泉郷に、瀬見温泉はある。山形の尾花沢から、これまた温泉地として知られた鳴子を経て、岩手県の一関に至る国道47号線(北羽前街道)沿いにあり、歴史の古い湯治場で、義経伝説が伝えられている。ここには、喜至楼という古い木造の旅館がある。これを見たくて、銀山温泉を早々に後にした。

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旅館「喜至楼」は、瀬見温泉街の入口のあたりにある。ゆるやかなカーブの坂道の途中には別館が、そして坂を下りたところに、注目の本館がある。

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とても印象に残る建築である。純和風建築なのだが、伝統的和風建築にはそのままあてはまらない要素が見て取れる。だれが設計したのか知らないが、どことなく異国風の趣向も感じられないだろうか。実際、館内にいくつかある温泉には、オランダ風呂やローマ風呂の名も付けられている(ローマ式千人風呂は円形に湯船の中心に円柱が立っている)。かつて多くの湯治場の宿がそうであったように、かなり規模が大きいく、ファインダー全景を収められなかった。が、今はかつてほど賑わっている風でもなく、少々寂しい。

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見たところ、1階はRC(鉄筋コンクリート)造で、2階から4階が木造。2階・3階は出桁形式で、寺院を思わせるダイナミックな大屋根が載せられている。建具はアルミサッシに交換されている。冬の冷え込みを考えれば仕方がないが、せめてブロンズにしてほしかったな~。

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内部の「和」のしつらえは素晴らしい。これだけの伝統的価値のある和風旅館が、いまだホームページも開設せず、東北の山間にひっそりと営業しているのは、惜しいといえば惜しいが、反面、あまり知られずにいてほしいという気持ちもある。

所在地 山形県最上郡最上町瀬見温泉

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銀山温泉

今でこそ超有名な銀山温泉。「おしん」のふるさとは、昨今の「秘湯」ブームで一大観光地になり、もはや秘湯ともいえない賑わいぶり。山形県の尾花沢市から、クルマで20分くらい田舎道を走ると、谷の下に銀山温泉の街並みが見えてくる。手前でクルマを停め、坂道を下りていく。とばくちの橋を渡り、右側に温泉街が川沿いに広がっているが、へその曲がっている私は左に行く。そこには、あの隈研吾センセイの設計された公衆浴場がある。

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がけ下の三角形の狭小な敷地に無理やり建てられ、よくこんな悪条件で隈センセイが受ける気になったなーと思う。内部は狭く、1階は男性用、2階は女性用。小さい高窓からやわらかい明かりが差し込み、かなり熱い源泉に浸かる。実に気分がいい。けれど、建物に隈さんらしい雰囲気をあまり感じることができなかったのはちょっと残念。

今、銀山温泉で隈さんといえば、この「藤屋」である。

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外国人の女将ジニーさんで知られるこの老舗旅館は、隈さんの手により昨年リニューアルオープンした(写真はHPからお借りしました)。老舗旅館にどう現代的な手法で手を加えられているのか、ぜひとも見てみたい。まだホヤホヤだけど、これから5年10年たって、周囲の老舗旅館の風景にどう溶け込んでいくのか、楽しみ。

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川沿いに続く温泉街の街並み。これだけ木造3階建が続く風景は、新潟県の漁村、筒石とここ銀山だけかもしれない。狭い路地の両側に密集している筒石と違い、銀山では川を挟んでいるので、個々の建物の意匠をじっくり鑑賞できる。

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中でも秀逸なのが「能登屋」。木造3階の上に塔屋2層が載せられ、木造5階建のように見える。頂部の望楼は古風な家具が置かれた談話室になっていて、温泉街から周囲の山々を一望できる眺めは格別に違いない。

ところで、画像が曇っているのは温泉の湯気のせいではなく、また霧のせいでもなく、手のひらの脂が付着していたのに気づかなかったため。宿でPCをあけたとき、それはもう激しく落胆した。何十枚も撮ったのに。。。いつかリベンジするしかない。「藤屋」さんも訪ねてみたいし。
温泉そのものについては、いろいろな人がネットで記事を書いているので、それを参照してください。

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平戸-隠れキリシタンたちのふるさと

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長崎・佐世保の先から、美しい赤い橋で平戸へと渡ります。静かな漁村の島には、美しいキリスト教会がいくつかあります。中でも、この「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」の美しさは、思わず息をのみます。1913年(大正2年)に今の愛の園保育園の所に建てられ、1931年(昭和6年)に現在地に建設された二代目とか。1971年(昭和46年)ザビエルの平戸来訪を記念して、「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と呼ばれるようになりました。

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ザビエル教会の脇を下りていきます。振り返ると、お寺の向こうにザビエル教会の尖塔が見える絶好のロケーションがあります。これも観光パンレットでずいぶん一般化しましたが、ずっと佇んでいると、実に絵になる風景。
平戸には、他にも田平天主堂や紐差教会など、美しい教会があります。時間を取ってじっくり見たかったが、このときは写真はこれだけ。
またいつか、きっと訪れたいです。

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江戸を歩く

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 千住と鈴が森。
 この2つの地名を聞いて、東京人なら、ピーンと来るものがあるでしょう。そう、ともに江戸時代、刑場だったことで知られている土地ですね。
 本書は、世界的な巨大都市、東京の中に「江戸」の名残を求めて散策するものですが、その散策は、千住に始まり鈴が森に終わる構成になっています。江戸は周到に計画された都市ではあったけれど、決して閉じた世界ではなかったそうです。
 「吉原の外側に千住回向院があり、品川遊里の外側に鈴が森の刑場があった。東京に暮らすとは、そうして東京で生きていった人々に出会うことである。死者と再会することである」。江戸に対する著者の感性は、とても鋭敏です。

 着物が似合う田中優子さん、日曜日の午前中のバラエティ番組のレギュラー出演者でもあります。着物姿で両国橋を颯爽と歩く写真も登場します。昔と全然変わっていません。私、学生の頃に先生の講義を受けたことがあるのですよ~とか言っても、聞こえないでしょうね。そして、千住に始まり鈴が森に終わるという物語の構成も、いかにも著者らしいように思います。
 写真家の石山貴美子さんとペアを組み、江戸の名残を求めて、感性の赴くままに東京の街を歩く。写真が印象深くて、向島の芸者さんの笑顔。処刑された者たちの無数の魂を弔い続けてきた千住小塚原の回向院の延命地蔵。けばけばしいソープランド街の傍らで吉原遊郭の面影をかすかに残すお歯黒どぶ。待乳山聖天のエロティックな二股大根が描かれた提灯。花見客が場所取りを繰り広げる小伝馬町の刑場跡。。。あとは本書を買い求めて、存分に鑑賞していただければと思います。

 ペテルスブルグとレニングラード、コンスタンチノープルとイスタンブール。2つの名前を持つ都市は、その複雑な変遷もさることながら、同一の都市の内部に互いに対立しあうアンビバレンツな要素が互いに同居している印象を受けますね。日本では、江戸と東京、大阪と難波。。。名前が2つ存在するのは、為政者の意図とは別に、やはりそれなりの必然性があったのだと考えるほうが自然ではないだろうか、などと思ったり。
 関東大震災や東京大空襲、高度経済成長とモータリゼーョン、バブルによる地上げなど、この都市は、さまざまな試練を受けながら、その外観を大きく変貌させてきました。江戸から東京と名前を変えることで、歴史をリセットし、まったく別の都市に転換したようにも見えます。京都ならそうはいかなかったはず。いまや江戸と東京は、遠く隔たってしまったのでしょうか。そうではないでしょう。江戸時代、火事は日常茶飯の出来事でした。宵越しの金は持たねえ、燃えたら、また作ればいいさ。人々の精神構造も、都市全体のあり方も、すべてがメタボリックだったのです。明と暗、陽と陰とを巧妙に同居させつつ、常に変化し続けてきた世界こそ、江戸的であり、同時に東京的なのでしょう。江戸と東京は対立軸にあるどころか、同質なのかもしれません。
 そんなことより、本書を持って、江戸東京の街をめぐる「小さな旅」に出かけてみましょう。江戸の「気」のようなものはそこかしこに感じることが出来るはずですから。

田中優子 著
集英社文庫ヴィジュアル版
定価 1,000円

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日本ばちかん巡り

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 書店の店頭で最初、「日本ばかちん巡り」と読んでしまいました。
何の本やねん、と手に取ったら、ああ「ばかちん」じゃなくて、「ばちかん」だったのね。要するに、日本の新興宗教のルポルタージュというわけ。新興宗教は全国に驚くほど多く存在します。それらを丹念に取材するなら、それこそ日本中を旅することになるでしょう。それにしても、日本人が無宗教だなんて、誰が言い始めたのでしょうか。これだけのなんとか教が林立しているにもかかわらず。。。

 本書は、合計13の教団ないし宗派を取材し、著者が実際に内部に入り込んで、目で見たこと、信者や幹部と話したことなどを中心に、あくまでイチゲンの目で書いたもの。難解そうな教義などは二の次で、教祖はどういう人か、信者がどういう生活をしているかなど、著者なりの視点を通して、個々の教団の特徴や概略のアウトラインが何となくわかります。この調子ですべての教団を取材できれば、一大ニッポン新興宗教図鑑ができあがりそうですが、そうは問屋が卸しません。新興宗教はなかなか取材に応じないところが多く、本書を見ても、誰でも知っている巨大教団が入っていなかったりします。

 このブログのお題は「風景」「街並み」であって、それを「新興宗教」に無理にこじつけるつもりはないけれど、以前から強い関心を持っていたのが、日本で唯一の宗教都市、奈良県天理市です。本書でも二番目に取り上げられ、きっと著者の関心度も高かったに違いありません。
 天理駅前に降り立つと、天理教特有の入母屋屋根を持つ中層RC建築物が団地のように整然と並んでいます。資本主義的な看板類はほとんど見当たりません。街には天理教の法被を着た老若男女が歩いています。宗教という枠の中で日常生活が回転しています。別の言い方をすれば、これだけ宗教が日常生活に根付いている土地もないのではないでしょうか。。。

 天理を唯一訪れたのは、今から12年前。初めて見る街並みに、私は思わず興奮し、すっかり舞い上がってしまいました。そして東京の友達に電話しました。「今、天理にいるんだけどさー、すごいところだよ。まさに宗教都市だよ、日本にいる気がしないよ。コンビニに入るとさあ、若いお姉ちゃんが法被着てレジ打ってるんだよ~」などと、見たこと感じたことを夢中になって、駅の公衆電話でしゃべりまくったのです。
 その日の夕方、京都に向かう途中、赤信号で停車中の私のクルマ(シビックフェリオSiR)に、後ろから生コン車が猛スピードで突っ込んできました。轟音とともに全身に衝撃を受け、つんのめって前のクルマに突っ込みました。ペシャンコになったクルマの中で、ケガがなかったのは、まさに奇跡。 ホテルでつくづく考えた挙句、思い当たったことは、あの天理教についての電話です。あれがいけなかったんだろうな、あんなことをいい気になってしゃべっていたから、た○○があったんだろう。。。
 教訓としては、どんな新興宗教であれ、それが宗教である以上、人の心を動かす影響力があるのであって、それを侮ることは何があっても許されない、ということです。人知を超えた宗教の力(?)を身をもって知ったということかもしれません。
 小さいかもしれないけど、こんなことも、宗教に接する上での「原体験」になったりします。それなりの敬意を持って個々の宗教に接する姿勢で本書を読むと、それぞれの教団にそれぞれの確固たる世界が築かれていることがわかります。イチゲンの目にはどんなに不可思議に映ろうと、立派な意義を持ち、信者の信仰に支えられた完結した世界が、そこにはあるわけであって。それを外部の人間があーだこーだ言うことは許されないし、する必要もないわけで、結局、「信じる者は救われる」ということに行き着くのでしょう。
 そう、ニッポンは決して無宗教国家などではありません。むしろ、世界に名だたる宗教大国なのです。新興宗教というと、AUMやら白装束やら社会と軋轢を起こす問題集団ばかりがテレビで取り上げられるけれど、本書を読む限り、多くの宗教は「おおらか」で、信者に過度な「帰依」を求めているわけでもなく、信者たちも人生を前向きに肯定して愉しむために気軽に宗教に接している(ような印象を受けます)。もっとも、それは今回の取材に応じた各宗教がそういう性格だったに過ぎないのかもしれないけど。天理市にしても、信者と非信者が摩擦を起こすこともなく、むしろとても仲良くやっている。天理市民だから入信しなきゃ、なんてことはまったくないようです。
つまり、いろいろな思想や価値観の人と共存できる素地を持つ宗教が各地に点在しているということを見ても、繰り返しになるけど、ニッポンは宗教国家なのですね。
だいぶ長くなっちゃった。
おわり。

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フェルメール全点踏破の旅

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 旅には人によってさまざまな形があるけれど、特定の画家の作品を求めて美術館を訪ね歩く-それも全点踏破を目指して-という形は、なかなかできるものではないでしょう。特にフェルメールという世界的な大画家であれば、収蔵美術館は欧米の各地に点在するわけだから。本書は集英社の男性雑誌「UOMO」の連載企画をベースにまとめられたもの。フェルメール好きな日本人向けに、数年に一度は展覧会が巡回してくるけれど、それを待つのではなく、自分の足で見て歩き感じてみようという編集者の着眼に、ジャーナリストであり美術フリークの著者が乗せられた(のかな?)ということみたい。
 というわけで、正直、フェルメール好きには垂涎の著です。新書判ですが、写真はすべてカラー印刷で、紙質も展覧会で販売される作品集と遜色のない、贅沢なつくりになっています(その分、新書ながら1,000円と少し高め)。
 著者は、フェルメールの絵をじっくり鑑賞しながら、その時代背景や作品の成り立ち、構図、ディテール、モデルなどについて、得られた情報をもとに分析を試みます。分析というよりは、自身の疑問や着眼に素直に書かれている点に好感が持てるんですね。文章がジャーナリスト的なんです。学者でもなく評論家でもなく、また過度に観念的だったり感覚的だったりせず、与えられた情報から正確な推論を立てようとしています。その推論も、絵を鑑賞するうえで、なるほどそうかもしれないと思わせてしまいます。そういう見方も出来るのか、と教えられることばかり。
 また、絵が描かれた場所を訪ねるというのも味わい深く、フェルメールが見たオランダの風景は、今も意外とあまり変わっていないようです。画集を小脇に抱え、広げながら、ここかな、いやあっちかな、なんて旅もまた楽しでしょうね。かつてフェルメールが描いた場所と同じ場所でスケッチなど出来たら、格別でしょう。うらやましい。。。。。
 海外の美術館に行って、その広さに疲労感を覚えたことはありませんか。私が行ったのはせいぜいニューヨークのメトロポリタンくらいなものだけど、1日かけてじっくり見て、最後は疲れ果てました。自身で消化できない量の作品がこれでもかと現れるからなのかな。
 個人的には、いろいろな絵を短時間に見るより、一枚の絵の前にじっくり佇み、飽きるまでじーっと見続けるような鑑賞が好きです。そうすると、見れる絵の枚数は必然的に制限されてしまいます。であれば、特定の作家の作品だけを求めて美術館をハシゴするという旅は、その作家に対する思い入れを満足でき、かつ濃度の濃い、目的性のある旅ができるような気がします。
 私も多くの日本人と同様、フェルメールは好きですが、欧米をハシゴするお金も時間もないので、国内の画家にしようかな。すでに何人かの画家を「物色」しているのですが、果たしてどのような旅になるのか、いつ実現するのか、考えているだけで楽しいったりします。街並みをめぐる旅とはまた違った楽しさがあるのは間違いありません、たぶん。

朽木ゆり子 著
集英社新書ヴィジュアル版 定価 1,000円  

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西片・本郷 その2 本郷館と鳳明館

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伝統和風旅館「鳳明館」の角を曲がれば、木造3階建の下宿屋「本郷館」の雄姿が目に飛び込んでくきます。「止まれ」と言われなくても、自然と足は止まってしまいます(笑)。

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明治時代の下宿屋が21世紀の今も普通に使われています。ヨーロッパではごくあたりまえのことが、日本ではこんなに珍しいのはどうしてでしょう。ところどころガラスが割れ、ビニルなどでふさいでいます。昔の学生寮には必ず寮歌があったそうですが、今にも学生たちの合唱が聞こえてきそうな雰囲気。

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傾斜地に立っていて、下から見上げたところ。大きさを実感します。

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学生たちの愛着が深く、卒業してもここに住み続ける人もいると聞きます。こういう愛情が注がれている間は、まず取り壊されることはないでしょうし、卒業生をはじめとしたあらゆる知恵を結集して建物を維持する努力が払われることでしょう。

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純粋な和風建築ですが、意外にビジネス客が多く使用しています。出張イコール駅前のビジネスホテルという定番ではなく、たまにはこういう趣のあるお宿に一泊してみるのも、東京再発見につながるのではないでしょうか(と思いつつ、まだ宿泊したことがありません)。訪れた日は、テレビ番組の収録が行われていました。

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玄関門柱には、登録文化財のプレートが埋め込まれています。なお、本館と別館が離れているので、最初は迷うかも。。。

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実に手の込んだ精巧な門の意匠。内部の意匠もなかなかのものらしいです。やはり泊まらなければ、ディテールの細部を検証することは出来ません。

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西片・本郷-菊坂界隈の樋口一葉と東大生の街

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本郷館。明治38年築で、今も東大生が暮らす木造3階建の下宿屋で、70室もあり、当時としたら相当大きな建物です。二葉亭四迷、徳田秋声も住んでいたそうです。窓には木桟に昔なつかしい摺りガラスがはめられ、所々透明ビニルが張られています。冬は寒いに違いないですが、3階からの眺めは格別でしょう。これで賄がついていくらくらいなのでしょうね。さすがに彼女を連れ込むことは出来ないけど、こういう環境で4年間、勉強できる学生って、幸せだと思います。

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旅館「鳳明館」は、本格的な純和風の数奇屋建築で、国の登録有形文化財です。和風旅館は得てして増改築を繰り返すうちに当初のイメージが変質していってしまいますが、鳳鳴館はほとんど手を加えられずに維持されているのがすごいところ。本郷近傍の旅館は、比較的安いこともあり、バブル前までは修学旅行の常宿だったそうで、受験シーズンには、東大受験生一色になるのでしょう。知らない東京に受験に出てきて、こういう家庭的な旅館で面倒見てもらえるのは、さぞかし心強いに違いありません。 

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樋口一葉が頻繁に利用していた伊勢屋質屋。昭和57年まで営業していたというから驚き。貧乏だった一葉は、24歳で生涯を閉じるまで、何度も通っていました。なけなしの小袖と羽織を風呂敷に包み、母とともに駆け込む姿が目に浮かぶような気がします。文士というのは昔から貧乏暇なしと相場が決まっていたみたいで。大体、ものを書いてメシを食うなど、およそ常人には考えられない所業にちがいありません(笑)。近くの路地の奥には、一葉の旧宅跡も残されています。また、西片には徳田秋成の生家も残っていますが、かなり老朽化が目立ちます。

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本格的な和風民家が今も普通に立っているあたり、さすが西片です。それでも、建築家の設計による豪邸にまじって、かなりハウスメーカーの工業化住宅が目立つようになってきました。住宅地には更地も目立ち、景観はこれから変質していくのは避けられそうもありません。

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青空に突き刺すようにとがった切妻屋根の洋館。大正から昭和初期の頃の作品と思われ、どことなく中世ヨーロッパを思わせますね。アルミサッシに交換した以外は、ほぼ原型のままのようです。2階の軒の出張りは樋。

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立派な蔵を持つ純和風の屋敷は、西片でも小数派。白壁と正月飾りが美しい。。。

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伊勢屋質店のある菊坂を下から見たところ。

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丸山福山町のアパート。木造3階建で、3階はロフト風、急勾配の鋼板葺の屋根には天窓が。エントランスに丸柱を配したアールデコ調ながら屋根は瓦葺で、道のカーブに沿って雁行しています。相当に老朽化しているけれど、当時は洒落た作りだったのは間違いなく、このまま取り壊すのは惜しい気がします。

■東京都文京区西片■
本郷通りに面した東京大学の前に広がる。古本屋の並ぶ東大前の本郷通りから白山通りに出る「菊坂」を境に、西側が西片、東側が本郷。西片地区は、一歩足を踏み入れると、そこには整然と区画された高級住宅地が広がり、成城か田園調布にでも迷い込んだような錯覚にとらわれる。本郷地区は、本郷館、鳳明館などの下宿屋や木造旅館、古い住宅などが残り、学生の町という雰囲気を漂わせている。
このあたりは、坂の町で、さまざまな坂にはそれぞれ名前が付けられ、その謂われがプレートに書かれていて、見ながら歩くのはなかなか楽しいものだ。また、戦災を受けなかったのか、戦前の住居表示も残っていたりして、感慨深い。かつては本郷区、だったのだ。

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根津-老舗が並ぶ善光寺坂下の下町風情

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失われつつある昭和の風景。せんべい屋さんの店頭。昔ながらのガラスケースには、古風なパッケージのおせんべいが並んでいます。学校帰りにいつも買い食いしていた駄菓子屋さんのおばさんが思い出されるますね。こういうノスタルジックなシーンがそこかしこで見られます。

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大正から昭和初期の頃と思われる住宅。和風の母屋には手前に洋風の増築部分、向かって左側には土蔵があります。何とも雰囲気のあるお宅。戦争の暗い影がしのび寄る前、東京にはハイカラな文化があったことを一瞬、思い起こさせてくれます。

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根津の裏道には、レトロなお店がたくさん。あでやかな和服の女性がよく似合います。

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串揚げの店「はん亭」。もともと着物で使う爪皮の問屋だった建物で、大正時代の築。表通り(不忍通り)と裏通りに面して木造3階建がそびえる姿は圧巻です。
上は裏通り側で、犬矢来やよしずがいかにも京都風のしつらえ。下は、思い切った現代風のアレンジがされていて、全体が金属製の「矢来」とガラス張りの透明な外皮でカバーされています。もともと、昭和初期に道路拡張により、大通りに面した一間ほどが削り取られることになり、その後処理としてなされた苦肉の策なんですね。誰のデザインか知りませんが、伝統と現代の調和が美しい。

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日本キリスト教会根津教会。根津界隈では唯一の洋風建築のよう。

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上野桜木から根津に向かう言問通り沿いにある「一乗寺」。

■東京都文京区根津■
上野桜木町から言問通りを進み、右手に一乗寺を過ぎてまっすぐ下り、不忍通りと交差したエリアが根津。そのまま直進すると本郷の東京大学に出る。根津神社は菅原道真公を祭神とする徳川家の氏神で、3,000本のつつじが咲き誇る様は壮麗(学生の頃に見た感動が未だに忘れられない)。三大の神輿が練り歩く例祭は山王祭、神田祭とともに江戸三大祭のひとつに数えられる。現存する江戸の神社建築としては最大規模で、本殿、幣殿、拝殿、唐門、桜門、透塀、青銅灯籠一対は国の重要文化財。



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上野-寛永寺界隈の甍と土塀 その2

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上野の東側、鶯谷付近。明治か大正時代の築と思われる古い商家が立っています。提灯屋さんの店先を覗くと、さまざまな祭りで使われる提灯が陳列され、いかにも江戸の香りが漂っています。あたりには木造3階建もちらほら。ただ、左右をマンションなどにはさまれて窮屈そう。このいびつな構図からも想像できるように、あたりは猛烈な勢いで建替えが進んでいて、数か月後に訪れた際には近くの古い商家の1軒が更地になっていました。

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小野照崎神社。以下、引用。
「小野篁(たかむら)公が御東下の際に上野照崎の地に安らぎを得て、居を構え、里人たちを親しく教育して上野殿と尊称され、御遺跡を留められたことから、篁公がご逝去された仁寿二年(852年)に地元の人々が渇仰して、小野照崎大明神と祀ったのが起源。江戸時代に上野寛永寺を建立するために、幕府から 兼務していた坂本村の(現在の鎮座地に移るよう下命があり、遷祀された。 江戸末期に回向院より御配神である菅原道真命御手刻の尊像を遷祀し、江戸二十五社天神の一つとして尊崇されている」
ふーん。

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面白いのは富士山信仰で、境内の奥に、溶岩で出来た富士山のミニチュアが築かれています。山門より一合目から頂上まで登り、山頂にて四方を祓い、本山である富士山を遥拝し、国の平安と五穀豊穣そして隆昌を祈念する神事が行われています。

上野池之端に「レッテル」の看板が何ともレトロな両山堂印刷さんを発見。大谷石の組積造で、今も現役。実に味わい深くて、これはいつまでも壊さずにいてほしいなあ。1棟はバーにリニューアルされていました。

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上野-寛永寺界隈に広がる甍と土塀 その1

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200年の歴史を持つ由緒ある銭湯「柏湯」を用途変更し、1993年にオープンしたギャラリースペース「SCAI THE BATHHOUSE」。外環は銭湯の時とさほど変わりませんが、銭湯ならではの「大空間」を生かし、コンクリートの床に白い壁面のニュートラルな空間が広がり、高い天井から自然光が差し込んでいます。銭湯のもつコミュニケーション機能を現代美術鑑賞の場に転化するという発想がニクイ。

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谷中の風景。上野桜木から一歩寺町に入ると、都心とは思えない光景が広がっています。左側は「大雄寺」入口で、高橋泥舟の墓があります。高橋泥舟とは、名臣として誉れ高い幕末の三舟の一人で、山岡鉄舟の義理の兄。山岡鉄舟、勝海舟と異なり、維新後も水戸に退去した徳川慶喜に仕え続けたのだとか。

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野桜木の交差点に立つ、下町風俗資料館付設展示場。かつて谷中6丁目にあった明治時代の酒屋「吉田屋本店」を移築したもの。重厚な出桁造りで、庇が腕木で支持され、出入口が揚戸であるのも特徴。坂や道具の数々が展示されていて、レトロさ満点。

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有名な観音寺の築地塀。雰囲気がありますね。

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上野や西片には、戦前からの長屋があり、今も現役で使われています。こうした長屋は関西では珍しくないですが、東京では現存するものは少ないようです。よく見れば、今で言う木賃アパートの原型で、玄関まわりの板塀など、戸建住宅としての最低限の「しつらえ」は持たせているようにも見えます。ただ、おそらく界壁のつくりは脆弱で、遮音性などプライバシーがどれだけ保てるのか、ちょっと疑問。上野公園も近いことであるし、落語「長屋の花見」を髣髴とさせるような光景。

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長屋の裏手にひっそりとまつられている地蔵。上野寛永寺周辺は多くの寺社仏閣が並ぶ寺町で、住民の方たちの信仰心の篤さをあちこちで目にします。

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すぺーす小倉屋。この路地の奥には、観音寺の土塀や、朝倉彫塑館があります。

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アラン・ウエストさんのアトリエ。ガラス張りの向こうには、艶やかな屏風絵が飾られ、思わず目を奪われる。色鮮やかですね。

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■東京都台東区上野桜木町■
東北方面への一大ターミナル駅である上野駅から、鶯谷駅、日暮里駅の西側にかけて広がる高台。アメ横がある谷側とは何という落差だろうか。
寺院の屋根の下に谷中の町があると言われ、その数70数軒にのぼる。江戸幕府による再開発や大火による寺院再建などで、ここに寺院が集まることになった。上野寛永寺には徳川将軍のうち6人が今も眠る。墓所のまわりに延々と続く土塀の向こうにラブホの看板が林立しているのはご愛嬌か。
維新直後の慶応4年(1868年)、戊申戦争で官軍は、大村益二郎の指揮のもと、上野寛永寺に立てこもる彰義隊を総攻撃し夕刻敗退させた(上野戦争)。寛永寺は戦場となって官軍により焼失し、明治維新以降上野の山一帯は焼け野原となってしまった。
西片・本郷、根津、鶯谷にかけて(谷中・根津・千駄木を詰めて谷根千エリアなどと呼ぶそうです)、一日散策しても飽きることはない。

上野の池之端にはレトロな組積造建築がある → その2

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大多喜-南総里見八犬伝のふるさと

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小さいながらも由緒のある大多喜城の城下町。佐原と並んで、千葉県下では最も歴史的な街並みが残されています。このように昔ながらの姿であるもの、人の手が加わり修景されたもの、さまざまですが、建築規制がされているのか、市内には中層の建物もなく、ヒューマンスケールのままで街が育まれてきました。房総の小江戸という表現がピッタリ。

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国指定重要文化財の渡辺家住宅。
その昔、小林一茶が大多喜に立ち寄った際に残していったという「松かぜに 寝て食う 64州かな」という短冊が残されています。いかにも天下泰平の小江戸の風情が漂い。。。
資料によると、桁行11.7m、梁間9.3m、2階建、東南土庇付(西面突出部 桁行6.5m、梁間6.5m、西面及び南面庇付)、寄棟造、桟瓦葺、北面便所附属。絵図面ならびに文久二星次壬戌太歳九月穀旦の記がある古文書が現在も収蔵されています。

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修景による保存。デザインの完成度は高いのですが、いまだ人工的で硬いという印象が。街並みに溶け込むには、もう少し時間がかかりそうです。そして、願わくば、電線地中化を推進してほしいのでありまして。上は、陣座公園の「商い資料館」。

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大多喜城下の銭神地区に、天明年間に創業されたと伝えられている豊乃鶴酒造。軒先に大きな杉玉を吊り下げた、この伝統ある建屋は、明治4年の廃藩置県を機に、明治7年、この地に建築されました。本醸造原酒「大多喜城」は、昭和49年に大多喜城が再築されたのを記念して発売されたもの。


■千葉県夷隅郡大多喜町■
房総半島のちょうど中央部、千葉市と勝浦市を結ぶ国道297号沿いに位置する。鉄道では、東京湾側へ小湊鉄道が、太平洋側へはいすみ鉄道が出ているが、最近は廃線話もちらほら。近くには養老温泉もある(湯温が低くて沸かしているが)
滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」で有名なお土地柄。大多喜城は、よく本多忠勝の城下町といわれるが、実際には天文期(1532~1555年)、里見家の重臣であった上総正木宗家の居城として4代にわたって発展した。その後、1590年に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、徳川家康が政権を握ると、里見家を抑えるために徳川四天王の1人である腹心の本多忠勝に10万石を与えて入封させた。
羽田空港上空を旋回していると、窓の外に見えるのはゴルフ場ばかり。たまにはクラブを置いて歴史散策でもいかがだろうか。


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佐原-水郷小江戸の風景 その2

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与倉屋の格子戸。光と影とが織り成すマジックが美しい。

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並木商店。和紙とお香のお店。かぐわしい香りをしみこませた美しい和紙にうっとりさせられます。紙細工の雛人形も。

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木の下旅館。ここの2階の部屋から小野川沿いの景観を眺められるのは、最高の贅沢ではないでしょうか。旅芸人をよく泊めていたそうです。

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小野川にかかる樋橋。伊能忠敬旧宅の前に復元されています。もともと用水を渡すための水路橋でしたが、後で人も通れるようにしたもの。30分間隔で樋の水が川面に落とされます。初めて見ると何とも不思議な光景。日本の音環境100選にも選ばれました。

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佐原には洋館もあります。
明治13年竣工の建物で、川崎銀行佐原支店として清水組(現在の清水建設)により建設され、その後、三菱銀行佐原支店となりました。銅葺のドームとれんが造がよく調和しています。

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組積造。やはりかつては銀行だったのでしょうか。

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家具店。通りに面したファサードは洋風、奥は下見板張りの和洋折衷。通りに面した妻入を後から改修したのかもしれません。

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佐原-水郷小江戸の風景 その1

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佐原と言えば水郷、その名にふさわしい風景が広がっています。小野川沿いに風情のある建物が並ぶ。江戸時代には「江戸まさり」といわれるほど船運で栄えたそうです。街並み船めぐりもでき、川面から柳越しにと見る風景もまた格別なものがありますね。
伊能忠敬の旧宅も、この小野川に面して保存されています。1793年(寛永5年)に自ら設計して30年あまりを過ごした質素な家です。伊能家に15歳で婿入りした彼は米の売買や酒の製造などの傍ら天文学などを勉強し、55歳で江戸に出て、全国各地を実測して回り、73歳で没するまで日本地図の作成に没頭しました。地図が完成を見たのは没後3年後ですが、その正確さには驚かされてしまいます。何か執念のようなものに取り付かれていたのでしょうか。ぜひとも「プロジェクトX」に出演してほしかった(笑)

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重要伝統的建造物保存地区(重伝建)に指定された、小野川と交差する香取街道沿いの景観。東の川越と呼べるかもしれません。もっとも、川越を西の佐原と呼ぶこともできますね(要はどっちもどっち、それくらい素晴らしいということ)
建物は江戸時代のものと明治時代のものが混じっていて、空襲はもちろん大きな火災を受けなかったことも町並みが保存された要因なのでしょう。また、個々の建物も意匠の変更を伴うような改修はせず、ありのままの状態でエイジングを重ねてきているますその分、維持管理の負担は並大抵ではないに違いありません。


■千葉県香取市佐原イ■
東関東自動車道を香取佐原ICで下りる。香取神宮を過ぎると、やがて自然に佐原市の市街地に入ってくる。JR総武本線は佐原駅で下車。銚子で太平洋に注ぐ利根川はすぐそこを流れている。
伝建地区はすべて「イ」という不思議な地番であるが、これは過去の町村合併の際の、行政単位の表示方法(イ、ロ、ハ…)に起因するらしく、千葉では他にも類似例がある。クルマの通行量が多く、できればバイパスを通して交通量を減らしたい。それから、例によって電柱の地中化。贅沢を言えばキリがないが、これだけ街並み景観が保存されているのは国家的な価値とも言え、あらゆる手を尽くして保存に注力すべきと考える。
7月と10月には有名な「佐原の大祭」がある。なぜ2回あるかというと、小野川から東が八坂神社、西が諏訪神社と異なる氏神がいて、夏が八坂神社、秋が諏訪神社というわけ。優美な雅楽に乗って勇壮な山車が練り歩く姿は、一度見てみたいもの。

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大内宿-かつての姿に蘇った会津西街道の茅葺集落

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大内が宿場として整備されたのは、江戸時代の初期。日光の今市から会津若松を結ぶ会津西街道の一部として、倉内-大内-関山と結ぶ峠越えの道の宿場として、大名の参勤交代のための本陣も構えるなど、半農半宿の集落として大いに栄えていました。
街道を往来する荷物は、宿場ごとに荷を馬に付け替えるため、馬と人足の手配は問屋本陣の重要な仕事であったそうです。馬に荷を付け替えるスペースを確保するために、壁面線が前面道路から5mくらい後退しています。

その後、明治17年、山形・新潟・栃木に通じる「三方道路」(今の国道121号線もその一部)が開通し、宿駅として駄賃稼ぎができなくなり、宿としての機能は一気に衰退してしまいました。山あいに田を開墾し、炭焼きをし、雪深い冬場には出稼ぎに行く生活を余儀なくされ、次第に表舞台から取り残されてきました。

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茅葺屋根の状態は非常によく、昭和56年、重要伝統的建築物群保存地区に指定されたのを契機に、この見事な茅葺屋根が復活しました。なだらかな斜面に沿って一定勾配の茅葺屋根が並ぶ姿は、山々が連なる稜線とシンクロしています。
側溝で野菜を洗っていたおばちゃんにカメラを向けると、「おら、モデルさなっちまっただー」とゲラゲラ笑う。自分もきっと、観光バスで押し寄せるツアー客の一員と思われているのかと思うと、気持ちは複雑です。純粋に民家として使われている家もあるのを知ってか知らずか、庭先に平気で立ち入る観光客。見ていて、ちょっと。。。
これら現実の姿を目にすると、歴史に翻弄され続けた大内宿の姿が重なり合ってしまいます。できるなら、人がいない静かなときに訪れたいものですね。
 
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昭和50年代の大内宿。茅葺が鋼板葺に葺き替わっていく状況がわかりますね(写真:日本放送文化協会刊「歴史の町なみ 北海道・東北篇」昭和55年 所収

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昭和42年の大内宿。昭和44年にNHKの特別番組で取り上げられ、全国的にその存在が知られるようになる前の姿です。ほとんど手付かずのまま、昔の宿場の姿が残されていたんですね(写真:日本放送文化協会刊「歴史の町なみ 北海道・東北篇」昭和55年 所収)。その後、女性誌などでも取り上げられて、若い女性たちが訪れるようになりました。

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■福島県南会津郡下郷町大内■
戦後になっても昔ながらの生活が続いていたが、昭和30年代半ばから耕運機が普及し始めて、かつて100頭あまりいた馬は激減し、生活が少しずつ変化していく。昭和50年代に入ると、大内ダム工事の補償として水田基盤整備が行われるとともに、鋼板葺が増えていく。昭和56年、重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことで、鋼板葺はかつての茅葺に戻され、大内宿はかつての姿を取り戻すことになった。かつての半農半宿の集落は、道路整備とモータリゼーションの恩恵を受け、ツーリズムによる劇的な変貌を遂げた。

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栃木-例幣使と木材廻送で栄えた「北の鎌倉」

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かつての日光例幣使街道も、今は「蔵の街大通り」と名づけられ、いかにも観光客目当てではあるけれども、それを差し引いても、電線地中化された通りは美しく修景され、まるで映画のセットの中にいるような錯覚も。。。地元出身の山本有三(小学校の頃、「路傍の石」とか読まされましたね)の自筆原稿などを収めた「山本有三ふるさと記念館」もあります。
栃木には、収蔵目的の土蔵と、店(見世)蔵の2タイプがあり、いわゆる見世蔵は、明治時代に全国的に普及したといわれていますが、栃木には日本最古と思われる江戸時代の見世蔵も現存しています(1845年築の古久磯提灯店)

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塚田家は、江戸時代後期から、巴波川の船運を生かし、木材廻送問屋を営んでいた豪商。当時は木材を筏に組んで、利根川経由で三日三晩かかって江戸深川の木場まで運んでいました。また、幕府とのつながりも深く、江戸からは日光御用の荷や塩などを運び、栃木からは木材や農産物を運んだとか。120mに黒塀と白い壁の土蔵が連なる様は圧巻で、その隆盛ぶりを物語っています。実に絵になる景観で、スケッチブックに向かう姿があちこちに。川面には10万匹という鯉の群れが自然の絵巻物を描いています。

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古い蔵をギャラリーなどにリニューアルする例は今や珍しくありませんが、ここ栃木は、すごいです。手作り家具を販売するお店であったり、はたまたカー用品店であったり。およそ、見世蔵をリニューアルしたカー用品店は、そうおいそれとはお目にかかれないはずでは? 店頭に並べられた最新デザインのアルミホイール、ハイテクの結晶であるカーナビはいかにもミスマッチなのだけれど、実に不思議な味があります。過去の歴史遺産を現在の社会経済のトレンドの中で有用に使い続けていくことに意味があるのであって、どう使うかはある意味二の次なんですね。

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7間間口の切妻の店舗の両側に蔵が接続された、両袖切妻造りの貴重な建物。横山家は、水戸藩士であった定助が武家を嫌って商人を志し、栃木において農産物の麻を主力とした荒物商を始め、その後は金融業にも進出し、隆盛を極めたそうです。建物の右半分が麻問屋、左半分が銀行だったというのも、こうした横山家の変遷を反映していて興味深いものがありますね。軒に据え付けられたガス灯がいかにもモダンで、時代に敏感だったことがうかがわれる。文化庁登録有形文化財に指定されています。

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美しい和風建築。各室には調度品が置かれていて、楽器などが置かれた室もあり、当時のハイカラな生活の一端を垣間見ることが出来ます。広い庭園には、いつくもの石灯籠が並び、大正7年築の洋館(内部は畳敷であるが)、茶室、祠や鳥居までありました。

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銀行の執務室。いや、正しく帳場というべきでしょう。机や椅子、金庫、古い壁掛時計、帳票類や印鑑、など、すべてが一級の骨董品のレベルで、明治大正時代のままに再現されています。鴨居に掛けられた写真が歴史を物語っています。銀行というより両替商といったほうがしっくりきます。金融機関という性格上、銀行がこうした品物を展示することは普通は考えられないから、これは貴重な歴史遺産です。
蔵では、時代の最先端の品々を買い集めていたことがうかがえる。単なる成金ではなく、粋な人物だったのでしょう。

■栃木県栃木市■
日光例幣使街道の宿場町。例幣使街道の名は、1617年に徳川家康の霊柩が日光に埋葬され、その後、幕府からの勅使(例幣使)が日光東照宮に毎年、回向するようになり、その際に通った道にちなんでいる。かつては県庁所在地だった(現在の県庁所在地は宇都宮市)。クルマでは東北自動車道栃木ICから。鉄道では、JR両毛線と東武日光線の「栃木駅」から。絢爛な山車が市内を練り歩く「とちぎ秋まつり」は5年に一度。金糸・銀糸による刺繍で艶やかに彩られた山車は、大通り沿いの「とちぎ山車会館」で見られる。明治時代の豪商であった横山家は、蔵の収蔵品の展示をはじめ、当時の銀行行内の様子なども再現されており、必見である。

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徳次郎-大谷石の組積造住宅が連続する農村集落

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徳次郎と書いて、とくじら、と読みます。
西根集落の家々は、母屋、蔵、塀、門と、屋根以外ほとんど石造です。この徳次郎石は、すぐ近くで算出する大谷石に比べ、比重が2割ほど高く、耐久性はやや劣るらしいのですが、外見は大谷石とほとんど変わりません。いわゆる単体としての大谷石建築なら、大谷や宇都宮のほうにすごいのがたくさん点在していますが、徳次郎には集落として実に落ち着いた街並みが残されています。

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徳次郎石を使った陸屋根の現代住宅も見られましたが、意匠的にはコンクリートブロック造のように見えてしまい、個人的にはいまいち感が。やはり組積造は蔵でしょう。窓まわりの意匠が凝りに凝っています。窓の両側に西洋風の付け柱を配したり、蔵なのにここまでやるか、というこだわりよう。加えて、年代が経って表面がザラザラに風化し、味わいのあるテクスチャーを醸し出して、それが蔵とよく調和しています。石積みにも規則性があり、その目地割のパターンを類型化している先生もいるみたいです。

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満開の桜の下に佇む、小さな石造の蔵。近づいてみると、「警官詰所」、「警防器具置場」と書かれた木製看板が今も掲げられています。のどかな山里の風景に溶け込んでいますが、実はKOBANだったのですね!

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徳次郎石を壁材に使った切妻屋根の蔵座敷。2階南側の桁方向は全面開口部で、メーソンリーにはない開放感にあふれています。妻面の石積みの壁と切妻屋根の取合いや庇、窓まわりの納まりには、工夫の跡がうかがえた。メーソンリーと軸組との合成構造みたい。

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徳次郎や大谷の周辺には、組積造による民家が至る所にあります。木造茅葺と違って維持管理の問題が少なく、今でも現役バリバリです。地域の景観に完全に溶け込み、地域を象徴する景観コードとなっています。メーソンリーの長屋門は、見慣れていない目には新鮮に映ります。

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会津地方を連想させる赤い鋼板葺の民家と組積造の蔵という異質な組合せは、そのプロポーションが絶妙で、満開の桜とあいまって、最高に近いショットとなりました。手前の電線と背景の鉄塔さえなければ。。。。

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■栃木県宇都宮市徳次郎町■
東北自動車道から日光宇都宮道路への分岐を進むと、最初の出口が徳次郎。出口を出ると、西根集落はすぐそこだ。100mにも満たないこの西根集落の路地の両側には、石材を多様に用いた住宅が並んでいて、そのほとんどは農家である。研究者が頻繁に訪れるためか、「こんにちは」と声をかけると、農家のおばちゃんたちがニコッと笑って気軽に応じてくれる。皆さん親切だが、日常の生活空間なので、くれぐれも珍奇な目で覗き込んだり、長居したりは慎まなければならない。大谷石の産出地、大谷はすぐ近く。


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七ヶ宿-変化に富む景観を見せる街道筋

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この七ヶ宿という言葉、実に響きがよいと思いませんか。
名前には不思議な力があって、別に「七人の侍」にかけるわけではありませんが、特別な何かがあって選ばれたというニュアンスを感じてしまいます。実のところは、奥州街道の桑折(こおり)宿から、上戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原の7つの宿場を通ることから名づけられたに過ぎないのであって。。。

さて、下戸沢宿はご覧のように茅葺が多く残存していますが、いかにも鄙びた雰囲気は否定できず、この地が宿として賑わっていたことを想像するのは難しいです。かつては、酒を酌み交わして疲れを癒やす旅人たちの明るい声が聞こえてきたのでしょうね。現役の住居として使われていますが、全体に傷みが進んでいるのが気になりました。

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下戸沢宿の裏手の山道を少し登ってみました。村全体がファインダーに収められる場所は見つかりませんでしたが、集落の雰囲気は伝わるのではないかと思います。両側から山が迫ってきているため土地が狭く、わずかな田畑を耕して生計を立ててきたことがうかがえます。旅人にはどのような食事を出していたのでしょう。

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上戸沢宿は、バイパスのすぐ裏手を通っています。下戸沢宿に比べてこじんまりとしています。集落の公民館の前には、「上戸沢宿」と書かれた木製の看板。朽ちかけた鋼板葺の民家が、何かを訴えかけているような気がして、しばし佇んでいました。

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滑津宿。関から湯原までの5宿のうちでは、滑津が最も宿場としての形を残しているように感じられます。でも、過去に火災で多くの民家が焼け落ちてしまい、この見事な風格を醸しだしている茅葺の安藤家住宅は運よく焼け残ったんですね。広い道幅の街道筋に堂々とした姿を見せる安藤家は、格式といい雰囲気のいい、存在感抜群。蔵も立派。
渡瀬や関、湯原の宿も、多かれ少なかれ火災にあっていて、すでに昔の町並みを髣髴とさせる建物はほとんど残されていません。残念なことです。かつて、渡瀬の集落には、入母屋の妻を街道に向けて立つ旅籠「かうじや」の雄姿が見られたはずなのですが、今は活版印刷によるモノクロの写真で当時をしのぶしかありません。

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上は滑津、下は二井宿で見かけた民家。福島県側の滑津と、山形県側の二井宿は、同じ街道であっても、険しい二井宿峠で隔てられているためか、意匠が明らかに違います。具体的な差異を指摘すればきりがないけれど、それより、この雰囲気の違いを見て味わうだけで、街道をめぐるロマンと郷愁みたいなものが沸いてきます。
二井宿から米沢に抜ける道は奥羽の大名たちの参勤交代路として、金山峠から上の山に抜ける道は江戸回送米を東置賜地方から運ぶ重要な輸送路であったそうですから、一部の商人たちを除いて、民衆レベルでの交流は峠に阻まれていたのでしょう。

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■宮城県刈田郡七ヶ宿町■
福島市の伊達町桑折で国道4号から七ヶ宿街道(羽州街道)に入り(または東北自動車道を国見ICで下り)、小坂峠を越えると、上戸沢宿、下戸沢宿へ。国道113号線に入り、やがて七ヶ宿ダムへ。ダム沿いの道を走り切ると、左手に「傾城森」が見え、思わず笑わされる(見ればわかる)。
そして、残りの5宿、渡瀬・関・滑津・峠田・湯原へ。七ヶ宿を過ぎると、道は二手に分かれる。二井宿峠越えの道(国道113号)は二井宿へ、金山峠越えの道(県道13号線:こちらが羽州街道)は楢下宿へと通じ、ともに山形県高畠市街に抜ける。

ルートからは外れるが、鎌先温泉にある「一條旅館」を見ておきたい。木造4階建が圧巻な湯治宿。
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喜多方ー奥会津にれんが蔵が連なる街

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三ツ谷・杉山-れんが蔵と白壁土蔵の対照的な街並み

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喜多方市街の少し北に位置する三ッ谷には、多くのれんが蔵が残されています。今では大型バスを擁して観光客が見学に来るまでになりました。この若菜家はテレビドラマの舞台になったことがあるそうで、今や全国区の観光地という感じです。

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若菜家には、農作業蔵(明治43年)、3階蔵(大正5年)、蔵座敷(大正6年)、味噌蔵(大正10年)の4つの蔵があります。この写真は農作業蔵で、焼き色の違う2種類のれんがを1階と2階で使い分け、アーチ型のエントランスと相まって、近代的なセンスにあふれ、今日に至るまで古臭さをまったく感じさせのせん。
わら加工、脱穀、精米、穀物貯蔵、家畜の食料(干し草)貯蔵などに使われているというのが、ちょっと信じられないような。農作業蔵の右が味噌蔵で、昔から自家生産の大豆を使い、麹と塩だけで仕込んでいるそうです。

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堂々たる構えの、若菜家の3階蔵。れんがの総数は42,500個にのぼり、冠婚葬祭や賄い用の食器類、寝具、長持ち、家財道具などが保管されているそうです。隣接しているのが座敷蔵で、ケヤキを使用し、来客の宿、隠居、会議、茶室などに使われています。

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三ッ谷近郊の旧米沢街道沿いには、れんが蔵が点在していますが、街道を北上していくと、れんが蔵はまったく見られなくなります。
なぜかというと、歴史を紐解けば、明治時代に磐越西線の会津若松-喜多方間の線路建設の際に招聘したドイツ人技師が、この地にれんが工場を建てたのがきっかけで、もともと住宅建材として製造されたものではなかったんですね。当時の棟梁たちは、いろいろな使い方を模索したでしょうが、木軸構造となじみにくく、開口部も大きく取れないなどで、れんが蔵という用途に落ち着いたのかも。

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こちらは杉山集落の蔵。三ッ谷からほど近い位置にあるのに、一転して、兜形の屋根と漆喰壁という意匠です! れんが蔵はひとつもありません。こんなに近いのに、不思議なことです。
それにしても静かです。路地の両側に蔵が立ち並び、商店はおろか自販機すらありません。自給自足に近い生活をしているのでしょう。杉山の蔵の特徴は、白と黒の漆喰が美しく調和した観音開きの扉にあり、こちらの蔵は貯蔵倉です。

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杉山の蔵座敷。貯蔵倉に比べて規模が大きいだけに迫力があります。冠婚葬祭などの際に賓客をもてなすための空間で、蔵座敷の内部は漆で塗り飾られているそうです。
杉山は昔、木炭と笠の原料となったスゲ草の産地だったそうで、そんな話からも、山奥の貧しい寒村だったことがうかがえますね。こんな小さな集落で、賓客をもてなす宴などそう頻繁にあるわけでもないだろうに、そこまで豪華な蔵座敷を作っていたということに、人や地域のつながりを重んじる杉山集落の人たちの気持ちが伝わってくる気がしました。

■福島県喜多方市岩月町三津谷 同入田月■
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喜多方市街から北へ向かう。大峠トンネルに通じる国道121号から、大峠に向かう旧米沢街道への分岐を進む。ほどなく、三ッ谷集落だ。三ッ谷は旧米沢街道から右に入ったあたり。一方、旧米沢街道をさらに北上すると、じきに杉山集落。こちらは左側へと入る。三ツ谷と違って訪れる人もなく、ひっそりとしている。杉山集落は戸数わずか19戸の小さい集落で、集落が終わればすぐ田んぼである。細い道をそのまま進むと、宇留野集落を経て、再び、大峠トンネルに通じる国道121号に出る。近くには、名前のごとくしょっぱい湯で名高い熱塩温泉がある。なお、旧米沢街道を直進しても、大峠は通行止めである。


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米沢-生活空間に息づく茅葺の武家屋敷

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城下町米沢の近郊、米沢興譲館高校からJR南米沢駅にかけての界隈は、かつて武家屋敷街だった地域です。今でもタイムスリップしたかのような一角が各所に点在しています。
たいてい、武家屋敷は文化財としての保存対象であって、このように日常生活の場として都市部近郊の景観に溶け込んでいるケースは多くはないと思います。いかにも生活臭に満ちているのに引力を感じ、足が自然に引きつけられていきました。

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ブルーシートによる簡易車庫とか、後から付け足した増築部分などが、伝統的な茅葺屋根住宅と日常生活の何ともアンバランスな印象を与えます。昭和30~40年代、このような光景は日本各地に見られたことでしょう。近くには、無人化して朽ち果てた民家も散在していました。これらの武家屋敷がそういう運命をたどらないことを祈るばかりです。

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武家屋敷街は表通りから奥に入ったところにあります。写真を撮っていたら、「米沢には他にもっといいところがあるだろうに、どうしてこんなところ撮っているのか?」と電気工事屋のお兄さんに尋ねられた。確かに観光客が来るところではありませんが、人知れず佇んでいるところがいかにも通好みというか。。。質実剛健で飾りりっ気のない茅葺住宅。武家の生活は貧しく、住居の裏に広がる畑で農作物を栽培していたそうで、それは現在も基本的に変わっていないように感じます。

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米沢から白布峠に向かう途中で見た、曲がり屋の農家。質素な武家屋敷とは対照的にどっしりとした重厚な構えで、規模も大きく、背景の山々と見事に溶け込んでいます。まさに里山の風景です。

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白布温泉は、「奥羽三高湯」のひとつに数えられ、山形・福島県境の険しい山中に開かれた秘湯です。白布温泉は峠の山形寄りに位置し、かつては西屋・東屋・中屋という3軒の茅葺屋根の旅館が並んでいましたが、2000年に火災により東屋と中屋が消失し、西屋だけになってしまいました。10年前に通ったときは、その勇姿をこの目で見ることができたのに。。。写真は撮らなかったのですが、今でもその風景を思い出せるような気がします。2年前に来たときには無残な更地になっていましたが、現在は東屋は近代的な旅館として再建されています。

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■山形県米沢市芳泉町~南原石垣町■
米沢市街から米沢猪苗代線(主要地方道2号)で南下すると、数分で米沢講譲館高校に出る。武家屋敷群は、その背後に点在している。目印はないので、注意深く走らないと見過ごしてしまう。
さらに南下し、船坂峠を越え、山中の道をひたすら走り続けると、やがて白布温泉に出る。白布温泉で熱い湯を浴びた後は、いよいよ白布峠越えである。米沢猪苗代線の西側を併走する大峠経由の国道112号線は、大峠トンネルの開通によって、冬季の通行がはじめて可能になったが(旧道の大峠は現在は閉鎖されている)、白布峠は今でも険しい難所で、急勾配のヘアピンカーブがこれでもかとばかりに続く。訪れたときは、激しい濃霧で10メートル先の視界も確保できなかった(晴れていれば抜群の眺望が得られる)。やっとのこと平地に降りると、そこには裏磐梯の高原とペンション群が広がっていた。

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田麦俣-消え行く月山麓の多層民家

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多層民家として有名な田麦俣も、今は2軒を残すのみ。手前(左側)の住居が民宿、奥(右側)の住居が見学用、脇にある小さい茅葺は、御手洗いです。
民宿のおかみさん曰く、「昔は、このあたりの民家はすべて、ウチらみたいな茅葺だったけれど、今はもう、たったこれだけになってしまいました」(東北弁→標準語に変換)。
いただいた資料によると、いずれも江戸文政年間の築で、当初は寄棟でしたが、明治に入って養蚕が盛んになり、かぶと型の屋根に改造されました。1階が住居用、2階が下男の住居兼作業場・物置、3階が養蚕作業のための作業のための厨子、さらにその上に天井厨子があります。
4層構造です!

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「旧遠藤家住宅」に入ってみました。当日、雨だった天候条件を差し引いても、内部は暗く、人工照明なしに暮らすことはできそうにありません。2階、3階に上がり、妻側の障子窓を開けると、多少、圧迫感から開放された気分になります。
5m近い豪雪に閉ざされ、ここで一冬を過ごすことを考えると、大変な忍耐が必要かも。雪解けの季節の訪れを感じる時の感動は、いかばかりかと思いますね。
2年連続の豪雪で、5月というのに、根雪となった残雪に囲まれています。この屋根に数メートルの雪が積もったら、雪下ろしなどまず不可能。雪の重みに耐える骨組みを作る以外にありません。この多層民家は、豪雪地で生き抜く術を身に着けた先人たちの知恵の結晶なのでしょう。

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旧遠藤家の3階は養蚕に用いられていました。煤けて黒ずんだ、合掌造のようにダイナミックで頑丈な骨組。

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そり。今でも現役で動かせそうなくらい、精巧にできています。

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■山形県東田川郡朝日村大字田麦俣字七つ滝■
国道112号(月山道路)で月山を目指す。現在は山形自動車道の未開通区間は月山-庄内あさひ間を残すのみとなっており、山形方面からは月山まで高速で一本である。だが、神秘の山、月山はやはり、一般道を行くのがよい(といっても自動車専用道路並みに整備されている)。
竣工した月山ダムを超えると、やがて田麦俣への分岐の表示が出る。この道こそ、かつての六十里越街道である。田麦俣は街道の宿場でもあった。狭い急な坂道を一気に降りていくと、やがて斜面にへばりつくように立っている2軒の多層民家が見えてくる。

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古民家での晴耕雨読な暮らしに憧れる軟弱な熊谷都民。

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