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三柱鳥居の話 その1-向島の三囲神社

向島の三囲神社
向島は、水戸街道(現在の国道6号線)と隅田川にはさまれたエリアです。今でこそ下町の中に埋没していますが、江戸時代には隅田川の向こう側に、田んぼの中に島のように見えたことが、向島という名の由来だそうです。料亭の街としてその名をとどろかせ、戦前からの古い住宅地の中に戦後に新築された豪華な高級料亭が点在し、偉い人を乗せた黒塗りのクルマが狭い道の奥に消えていく、ちょっとアンバランスな光景。隅田川の土手に沿って美しい桜並木が続き、川面に浮かぶ屋形船と相まって、江戸のちょっとした名所となっています。

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さて、この向島に、「三囲神社」という、ちょっと聞きなれない名前の神社があります。隅田川七福神のひとつで、恵比寿神と大黒神を祭っており、浅草七福神とともに今も地元の人々の信仰が篤く、正月ともなれば、江戸の善男善女たちがパチパチと手を合わせて拝んでいきます。
創建は不祥ですが、文和年間(1353~1355)に、近江の三井寺の僧源慶により再建されました。ちなみに「三囲」(三圍)と書いて「みめぐり」と読むのには謂われがあって、社伝によれば、源慶によって再建された時、土中から神像が出土し、その神像のまわりを白狐が三回まわったところから名付けられたそうです。七福神というという現世御利益の神様を祭る社にしては、何か異質なものを感じるお社です。

不思議な三柱鳥居
この三囲神社には、不思議な「三柱鳥居」があります。

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境内を歩きながら、本殿の裏側にまわると、隠れるように佇んでいる姿を目にします。気づいた人は「え、これって何?」とじっと目を凝らしています。それもそのはずですね。鳥居はもともと聖と俗を仕切る門の役割を持ち、「2本の木の幹に注連縄を架ける」のが原初の形だったわけですから、そもそも三柱鳥居は本来の鳥居の機能を果たしようがありません。
鳥居というより、鳥居の形を借りたオブジェに見えますね。昔は木造だったのですが、18世紀に現在の石造(おそらく花崗岩?)に造り変えられたと聞きます。
木造ならともかく、三柱鳥居を石で作るのはおそろしく骨が折れることで、接合部のディテールはかなり複雑になり、木造と同じ貫構造でつくるとしたら大変な作業です。何か特別な意味や価値がなければ、わざわざ作るものではないのは明らかです。
では、誰がどのような思いや考えを込めたのでしょうか。。。
鳥居の前には、わざわざ柵が設けられ「この中に入らないでください」と注意書きが書かれています。そして、三柱鳥居の手前には、同じく三柱の東阿(手水舎)が立っています。何だか不思議な光景ですね。

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三囲神社と三井家
鳥居の脇には「三井邸より移す」というプレートが付けられており、この三柱鳥居が旧財閥の三井家から寄贈されたものであることが示されています。
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さらに、境内の奥(隅田川側の裏口近く)には、木壁に過剰な彫刻を施した「顕名霊社」という、これまた妙な名前のお宮さんがあって、鉄柵で囲われています。この顕名霊社は、三井家の開祖とされる三井高安を祭っているとされています。
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なるほど。ここまで来ると、さすがに、この三囲神社が普通の神社とはちょっと違うことに気づきますね。
由緒書を見てみましょう。
三囲神社の恵比寿様と大黒様は、もとは越後屋呉服店に祭られていたものを移したもので、越後屋とは、かの三井家(三越)の前身です。
「三井総元方 三井銀行 三井物産株式會社 三井鉱山株式會社 株式會社三越 右総元方始め各株式會社交替に正五九の小祭を受け持ち昔の例の儘に祭祀を執り行ふ」
「…特に京都の巨商三井家江戸に進出するや三圍大神の信仰篤く當家の守護神と仰ぎ、享保元年三井高治三井高久三井高房相議りて神祇の司職吉田家に神位を乞請け捧げ奉り…」

そう、この三囲神社は三井家の氏神なのです。境内には三越の屋号も見られ、正月には三越の名を記した幟が立ちます。
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三柱鳥居は、江戸に進出した越後屋(現在の三井家)にあったものを寄贈したもののようです。

三囲神社の「囲」は常用漢字で、かつては「三圍」と書いていました。この「韋」という字はもともと「動物の皮」という意味を持っていたそうです。白狐が三たび回ったという謂れから何となく納得できそうですが、「三囲」の「囲」から口(くにがまえ)をとると、三井神社になるわけで、偶然にしてはできすぎのような気もします。

さて、例のプレートにも「原形は京都太秦・木島神社にある」と書かれてあるとおり、三柱鳥居のご本家は、京都にあります。早速、見に行ってきました。

以下、「その2」に続く

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三柱鳥居の話その2 蚕ノ社へ

木嶋神社(蚕ノ社)へ
三柱鳥居を見に(というわけではありませんが)、久しぶりに京都まで行ってきました。話は向島から京都へと、大きく展開します。京都の四条大宮駅から京福電鉄嵐山線に乗ります。レトロでかわいい電車です。しばらくトコトコ走り、映画村で有名な太秦のひとつ手前の「蚕ノ社」駅で下りましょう。

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下車すると、駅前がすぐ参道の入口になっていて、鳥居が出迎えてくれます。その鳥居を見上げると、「蚕養社」と書かれています。

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鳥居をくぐり、今は住宅街となっている参道をまっすぐ歩くと、やがてこんもりした林が見えてきます。周囲が住宅密集地であるだけに、この林は島みたいに見えます。
ここが、木嶋神社(通称、蚕ノ社)です。

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人々の信仰を集めていると聞いていましたが、実際、通りを行く人たちが深々と頭を下げていきます。愛犬の若いシバイヌを連れた初老のおじさんは、15分ほどずっと手を合わせ続けていました。主人が手を合わせている間、愛犬はそばでじっとしていて、主人が離していたリードを手にした瞬間、はしゃぎながら主人を引っ張っていきました。
鳥居をくぐり、右手に蚕養神社を見て、小ぶりな本殿を参拝した後、その左側に、目指す三柱鳥居はありました。

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林に囲まれた池の奥に建つ三本鳥居。向島の三囲神社よりも、ミステリアスに見えます。
ここで、境内に書かれている木嶋神社の由緒書きを読んでみましょう(ちょっと長いですが)。まず京都市教育委員会が立てたプレートから。

由緒
木嶋座天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社(かいこのやしろ)
 この神社は、通称「木嶋神社」または「蚕ノ社」と呼ばれる延喜式内社で、天御中主命、大国魂神、穂々出見神、鵜茅不合命を祀っている。
『続日本紀』大宝元年(701年)4月3日の条に、神社名が書かれているから、それ以前に祭祀されたことがわかる古社である。
 この嵯峨野一帯は、古墳時代に朝鮮半島から渡来し、製陶、養蚕、機織などすぐれた技術を持っていた秦氏の勢力範囲で、当神社本殿の東側には織物の祖神を祀る蚕養(こかい)神社(東本殿)があり、「蚕ノ社」もそれにちなんだ名前である。
 この神社は、古くより祈雨の神として信仰が厚く、参詣の人も多かったことが、平安時代に書かれた「日本三代実録」や「梁塵秘抄」などの文献からうかがい知ることができる。
 社殿は明治以後のもので、本殿・東本殿・拝殿などがあり、社殿を取り囲むように巨樹が繁茂している。本殿の西側には、四季湧水する「元糾の池」という神池があり、天保2年(1831年)に再興された京都三鳥居のひとつとされる石製三柱鳥居が建つ。
 例祭は毎年10月10日に行われるが、夏の土曜丑の日には、この池に手足を浸すと諸病によいという庶民信仰がある。
 市内でも最古に属する当神社は、境内から清泉が湧きも巨樹が繁茂して、古来の姿をよくとどめており、京都発展に大きな役割を果たしてきた秦氏との関連を含め、大変貴重なものである。

なるほど。
それから、神社が立てた古い由緒書きを見てみましょう。
養蚕神社(蚕ノ社)本殿右側の社殿
雄略天皇の御代(1500年前)、秦酒公呉国(今の中国南部)より漢織、呉織を召し秦氏の諸族とともに数多くの絹・綾を織り出し、「ウヅマサ」の姓を賜る。この地を太秦と称し、推古天皇の御代に至りその報恩と繁栄を祈るため、養蚕・織物・染色の祖神を勧請したのがこの社である。
元糾の池
境内に「元糾の池」と称する神池がある。嵯峨天皇の御代に下鴨(下賀茂)に遷してより「元糾」と言う。
糾すは「正しくなす」「誤りをなおす」の意味で、この神池は身滌(身に罪や穢のあるときに心身を浄める)の行場である。
三柱鳥居
全国唯一の鳥居である。鳥居を三つ組み合わせた形体で、中央の組石は本殿ご祭神の神座であり、宇宙の中心を表し、四方より拝することが出来るよう建立されている。創立年月は不詳であるが、現在の鳥居は享保年間(約三百年前)に修復されたものである。
一説には景教(キリスト教の一派ネストル教、1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと言われている。

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これが元糾の池です。かつては滾々と水が湧きだしていたに違いないですが、今は枯れ気味のようです。地元の人たちは何とか池の水を回復しようと試みているようですが、うまくいかないとか。

以下、「その3」に続く

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渋温泉-温泉も建築も言う事なし

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渋温泉はほとんどが伝統木造の旅館(中には鉄筋コンクリート造の新しい旅館もあるが)で、今では数少ない、昔ながらの温泉情緒を楽しめる温泉。中でも極め付きはここ「歴史の宿、金具屋」。最近はテレビや旅行雑誌などで紹介されまくっていて超人気の宿。何といっても、腕のいい宮大工たちが贅の限りを尽くしたに違いない、木造4階建「斉月楼」は、国登録有形文化財に指定されている。手前に記念写真用の「お立ち台」の端がわずかに映っている。みんなコンパクトなデジカメで撮っていたけれど、とても全景が入るはずもなく。。。

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渋温泉の対岸の高台から見下ろす。川沿いに立つ手前の木造3階建旅館(すでに廃業しているそうです。ご指摘いただきました)のすぐ後ろに、「金具屋」は山の斜面に沿って立っている。手前に見える緑色の屋根が木造4階建の「斉月楼」で、それ以外にも鉄筋コンクリート造の「神明の館」、木造の「潜龍館」「居人荘」の4つがあり、まるで迷路のようだとか。和の贅を尽くした内装、4本の源泉それぞれに趣の違う風呂など、この目で確かめたかったが、残念ながら、泊まったのは別の宿だった(少なくとも古さという点では金具屋にひけをとらないと思うけど)。

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渋温泉には、計9つの外湯があって、渋温泉の宿に泊まった客は、マスターキーのついた温泉手形を持って自由に入ることが出来る。1番目の「初湯」から始まって、最後がこの「大湯」。すべてが異なる源泉で、効能もそれぞれ違うが、共通点はめちゃくちゃ熱いこと。とにかく熱い。熱いほうが温泉らしくて好きだけど、それにしても熱い。途中、一緒になったおじさんは「ひととおり入ってきて、ここが最後だよ」とこともなげに言うので感心していたら、何のことはない、蛇口をめいっぱいひねって大量の水で薄め始めた。なんだ、インチキじゃないか。

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「大湯」の上には、足湯がオープンした。大湯の前には、高薬師様が鎮座している。外湯を回るたびに、入り口のところで手ぬぐいにスタンプを押し、9個スタンプを押し終わった手ぬぐいをもって高薬師にお参りすると、とってもいいことがあるそうな。

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大湯に隣接している「湯本旅館」。ここもかなりの老舗。

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真田家旧本陣の「つばたや」。玄関は信州特有の出桁形になっている。

他にも、伝統木造旅館が狭い路地の両側にびっしり建っていて、その多くは3階建である。これはもう、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されるべきではないかとまじめに思う。こんな渋温泉にも、かつて迷走した時代があったという。
「歴史の宿 金具屋」のホームページには宿の歴史が解説されていて、なかなか興味深い。それによると、昭和30~40年代の高度経済成長時代、旅館のビジネスモデルは大量に発生する社員旅行需要をいかにまかなうかに集約されていて、和風伝統旅館は敬遠される傾向にあった。そのため、当時の金具屋は『洋風』を志向した時期があったという(もっとも施設の一部であるが)。通りに面して鉄筋コンクリート造の洋館を増築し、玄関は完全なホテルそのもの。屋上に洋風の露天風呂を設け(これは和風に改造した今でも健在)、その隣にはピロティ形式で中2階のガラス張りのラウンジを作ったりしていた(現在は解体されている)。HPでは、その写真を見ることが出来る。今は懐かしい1960年代のモダニズム建築そのもの。信じられないような話である。その後、高度経済成長の終焉とともに和風温泉旅館が見直され、本来の和風旅館に戻ったのだとか。

そんなこんなも耳に入れた上で、改めて金具屋の玄関に立つと、また違った意味の感慨が沸いてくるのではないでしょうか。


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海野宿-卯建と格子と気抜きと。。。

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北国街道は、追分宿で中山道と分かれ、小諸、海野、上田、戸倉、善光寺を経て越後、越中、越前へと続きます。佐渡で採れた金の輸送、北陸の諸大名の参勤交代、善光寺への参詣などでにぎわっていたそうです。それにしても、本当に徒歩で移動していたのかと思いたくなる、壮大な道のりです。海野宿は寛永2年(1625年)に宿駅として開かれ、本陣として、伝馬屋敷59軒、旅籠23軒と非常に大きい宿でしたが、明治以後は養蚕農家への転進を図りました。

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とにかく壮観で、驚きました。
海野の建築を規定する3点セット、「卯建」、「海野格子」、そして「気抜き」のすべてを揃えた民家。
棟に沿った「本卯建」は、妻壁を一段高くして、防火壁としての機能を持たせています。「袖卯建」は装飾性が高く明治時代のものが多いとか。
「海野格子」は、長短の格子を組み合わせた独特のもので、近くで見るとなかなか味があります。
「気抜き」は大屋根の上に設けられた越屋根のことで、明治以後、養蚕に転業してから設けられました。
それにしても、この民家の卯建はすごいの一言。岐阜の美濃で見た卯建もすごかったですが。。。 

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海野宿は北国街道の中でも当時の様子を今のままに伝える貴重な歴史的遺産で、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。片側には清流が流れている。駐車場も完備され、クルマがむやみに入ってこれないようにしているのもgood。   

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美しい格子。日照調整と視線防御という機能も果たす、素晴らしい和の仕掛けです。単純だけれど、実に深く考えられているのだな、と感心してしまいます。下の写真では、2階の格子は長短の線材を交互に組み合わせる「海野格子」を見ることが出来ます。2階なので人の目を気にすることがないため、日射量を増やそうと考えたのでしょうか。

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旧本陣の長屋門。門の奥には美しい庭園が垣間見えます。

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土蔵をしたがえた民家。商家でしょうか。

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茅葺屋根に鋼板を葺いた民家もありましたが、ほとんどの民家は瓦葺に変更されています。奥の家(シートがかけられている)は全面リニューアル中で、柱・梁・屋根以外はすべて取り払われていました。

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大きな気抜きを設けた民家。


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名古屋(有松)-旧東海道の豪商の屋敷

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名古屋から名鉄本線豊橋行で20分ほど、有松駅で下車してすぐ、旧東海道は駅の東西方向に広がっています。まずは左に曲がり、街並み探索開始です。
この大邸宅は服部家住宅。竹田家とともに、有松絞りの中心的な商家です。徳川家康が江戸幕府を開いてまもない頃、尾張藩が藩の特産品として保護することで、有松絞りの歴史は始まりました。絞りの手拭や浴衣は、旅の土産として重宝され、街道一の名産品となって、有松絞りとしてやがて全国に名をとどろかせることになったとか。地味だけど渋く、いかにも江戸らしい、粋でいなせという風情。

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服部家住宅は、とにかく豪壮。母屋の両端は、直線的な棟卯建と曲線を描く優雅な袖卯建とのコンビネーションが実に美しいです。卯建をここまで装飾として完成させた民家は、日本広しといえど、そうはお目にかかれないのではないでしょうか。1階の千本格子、2階は黒塗りの虫籠窓と、バリエーションに富んでいます。
江戸末期から明治初期にかれて建てられ、かつての絞り問屋としての面影をもっとも良く残しているといわれています。母屋のほかに客室1棟、井戸屋形1棟、土蔵・絞り蔵・藍蔵6棟、門並門長屋2棟からなり、現在も「井桁屋」の屋号を持つ現役の商家です。

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今度は有松駅から右側へ歩を進めましょう。まず目に飛び込んでくるのが、竹田家住宅。卯建はありませんが、その豪壮さは服部家とひけをとりません。以前は平屋でしたが、明治から大正にかけて大改造して2階建にしたそうです。かつては土蔵が6つも並ぶ豪商でしたが、今残るのは2つだけ。現在も「笹加」の屋号で商いを続けています。内部の書院、茶室は大変優れたものと聞くが、公開されていないのが何とも残念。

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岡家住宅。典型的な塗篭造の建物。間口が長い分だけ、1階の千本格子と2階の虫籠窓のコントラストが強調され、服部家や竹田家とはひとあじちがった雰囲気があります。

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有松宿の街並み。旧東海道で、ここまで町並みが保存されているのは、有松を置いて他にないかもしれませんね。

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玄関に据えられた行灯や屋根に鎮座する飾り瓦など、歩けば歩くだけ発見があります。
ちなみに、有松絞りは、①図案を決めて、型紙で型を彫る ②型紙を布の上に置き、刷毛で青花模様を刷り込む ③くくり(4~5人の家庭に次々と廻されて加工される) ④専業の染屋が染色を行う ⑤糸留めしていた糸を抜く ⑥仕上げ という工程を経る。絞り技法の種類にも、杢目縫い絞り、唐松縫い絞り、折り縫い絞り、手蜘蛛縫い絞り、機械蜘蛛絞り、巻き上げ絞り、横三浦絞り、人目鹿の子絞り、突き出し鹿の子絞り、蜘蛛入り柳絞り、みどり絞り、日の出絞りなど実に多種多様で、とても覚えられないです。
詳細は、有松・鳴海絞会館HPにて。


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名古屋(大門)-旧中村遊郭にタイムスリップ

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中村遊郭の中でも、華やかなその朱泥の壁で道行く人々の目を引いたに違いない、「稲本」。現在は料亭となっていますが、周囲にマンションなどが立ち並んでしまった現在、その際立つ存在感はいよいよ異彩を放っています。入口は中国風で、いかにも竜宮城のよう。内装は和の贅を尽くし、外装以上に豪華絢爛なのですが、出張の帰り際に立ち寄った貧乏サラリーマンが中に入れるはずもなく、ここで退散。
それにしても、遊郭は夕暮れ時がよく似あいます。

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通りをはさんで、「稲本」(右)と「松岡(」左)が向き合っています。ともに、規模はかなり大きいです。

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「稲本」と双璧をなす、こちらは「松岡」。写真でしか見たことはありませんが、松岡の浴室は床も壁も浴槽もすべて舶来のタイル張りで、ステンドグラスがちりばめられたアールデコの世界。その豪華さは稲本にひけをとりません。
料理屋として今も健在な稲本とは対照的に、こちらは、なんと「デイケアセンター」になっていて、これにはとてもびっくりしました。玄関に映っている方は介護ヘルパーさん。遊郭からデイケアセンターという、驚きの「用途変更」により、何とか建物としての寿命をまっとうする道を与えられたわけですね。
外観は当時のままで、写真は雨でけぶってしまいましたが、窓まわりの和のしつらえに、当時の風情をしのぶことができます。内部も最低限の機能付加以外は手を加えていないようです。建物に対するオーナーの愛情を感じます。ずっとこのまま使われ続けて欲しいと願うばかり。

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これもかなり大きな建物。稲本と同様に、朱泥が塗られた様が艶かしさをそそります。
ものの本によると、「新千寿」という名の遊郭だった建物で、かつては「新山水」という遊郭と棟続きで連なっていました。現在は「新山水」は解体されて看護学校が建てられましたが(写真で後ろに見える白いビルがそれ)、「新千寿」は当時のまま、今に至っているということらしいです。
玄関には、旧中村遊郭の中心に位置する鵜飼病院を経営する鵜飼家の表札が掲げられていました。鵜飼家はこの旧中村遊郭に広大な土地を所有する地主さんのようで、何軒かの旧遊郭建物は取り壊されて病院施設が建てられました。とは言え、用途変更した松岡をはじめ、こうして今もかつての遊郭建物が使われ続けているのは、保存に対する鵜飼家の理解によるところが大きいのかもしれませんね。

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かつて遊郭だった建物を、あちこちに見つけることが出来ます。普通に商店あるいは民家として使われていますが、建物のつくりはかつてのこの街の歴史を道行く者に静かに伝えています。

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中村遊郭は、現在は中村区大門町。商店が並ぶ、ごく普通の生活圏なのですが、本来は「異界」のはずのソープランドがスーパーマーケットに面して軒を連ねている様は、初めて訪れる者にとっては、かなりアンバランスに感じられます。しかも、ほとんどの店は古くからの木造の遊郭建物を使用しているらしく、通りに面した部分だけをコンクリート製のファサードで煌びやかに飾っています。

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傑作だったのは、このアラビアンナイトの建物。イスラムのモスクをあしらった(らしい)ファサードと、古い木造遊郭の落差というかコントラストには、何とも言いようがないものがあります。頭にターバンを巻いたボーイが出てくるのでしょうか。姫はクレオパトラチックなのでしょうか。
ちなみに、かつてはフランク・ロイド・ライト風など、エキゾチックな遊郭建築の饗宴が見られたらしいのですが、今はその面影もない、うら寂しい横丁風情。

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中山道-芦田宿・望月宿

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塩名田宿から八幡宿を経て、望月宿へ。望月の名は、8月の満月の日、朝廷へ名馬を納めたことに由来するとか。手塩にかけて育てた美しい名馬が、月光に照らされながら、朝廷へと旅立っていくのを見て、馬主は誇らしさと寂しさが入り混じった気持ちだったことでしょう。写真の建物は「ますや洋品店」。昔の商家そのままのつくり。少しも手を加えていないところが嬉しいです。

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「山城屋旅館」。外観は昔のままだが、内部は今風に大幅にリニューアルされています。

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木造3階建の威容を誇る井出野屋旅館。大正5年(1915)築。玄関を覗けば、そこには昔懐かしい手作りの波板ガラス。映し出された背景の波打ち具合が何ともレトロです。映画「犬神家の一族」のロケに使われたという話を聞いて驚きました。ロードショーの時はまだ子供だったし、怖かったなー。

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「旅籠大和屋」(真山家住宅)。江戸中期の遺構を残す問屋兼旅籠、幕末には庄屋でもありました。明和2年(1765)望月宿大火の直後に建てられた望月で最古の民家。国登録重要文化財。
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同じく真山家住宅。出桁の先端に彫られた飾りが実に印象的。この出桁という信州特有の構造は、こういう「矩計ショット」で撮ると特徴がよくわかりますね。積雪地における生活機能を重視した結果だと思いますが、結果的に建物に独特の立体感を与える形になっています。

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2階の窓下にさりげなく施された扇子のあしらい。建物にこんな装飾を施すとは、きっと絵心のある棟梁だったのでしょう、実に風流で趣がありますね。1階の通りに面して設けられた波板屋根の自転車置場がなければ、文化財級にも思えるのですが。。。

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望月宿から茂田井の間宿を経て、芦田宿へ。芦田宿で最も大きい建物(と思われる)金丸土屋旅館。開口部のない平入の妻面を見るだけで、その規模がわかろうというものです。一体何間あるのか、数えたくなくなります。それもそのはず、8畳間が1階に9間、2階に4間、計13間もあるのだから驚き。妻面の「金丸」の屋号が目を引きます。
泊まった方の話によると、1階は8畳間が4室縦に連なっていて、襖だけで仕切られている、典型的な江戸時代旅籠のつくり。昔は相部屋が当たり前だったそうですから、プライバシーもへったくれもなかったわけですね。小さめの学校なら、修学旅行の一学年が泊まれそうだけど、夜通し枕投げ合ったりして大変なことになりそう。2階にある4室は、今やほとんど使うことはないそうです。

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玄関を見上げると「津ちや」という屋号が掲げられています。温泉地でも観光地でもない土地の木造旅館は、学校の部活動の合宿を誘致するか、長期滞在を余儀なくされる測量士や土木技術者などを泊めることになります。そう、歴史の風格の漂う金丸土屋旅館は、今はれっきとしたビジネス旅館なのですね。

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金丸土屋旅館の対面にある民家。「酢屋茂」という名で、味噌と醤油を売っています。

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芦田宿の旧本陣、土屋家住宅。芦田宿設置とともに、土屋右京左衛門が明治維新まで代々勤めてきました。現在残っているのは寛政十二年に建て替えられた客殿のみ。公家や諸大名の宿泊・休憩などに使われ、諸大名の宿札が残されています。庭に入ることは出来ますが、建物の全容を見ることはなかなかできません。それでも、本陣の威厳と風格は、写真から十分に伝わるのでは。

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中山道-小田井宿・塩名田宿

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中山道を軽井沢宿から追分宿へ進むと、やがて小田井宿へ。飯盛女で賑わった追分宿とはうってかわって、こじんまりとした宿です。文久元年に皇女和宮の御昼食休みに立ち寄るなど、多くの姫君の休泊に利用されたことから「姫の宿」と呼ばれていまして。なるほど、静かな佇まいは、いかにも姫君の休息に似つかわしい雰囲気をたたえています。8月16日の小田井祭りは、和宮より拝領の人形にちなんだもの。

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小田井宿には本陣跡、上・下問屋跡、旅籠などが残ります。宿場用水の清流も流れています(かつては道の両側に流れていましたが、今は片側のみ)。もともと宿泊よりはお伝馬が主の宿で、上下問屋がありました。この建物は、上問屋で旧本陣の安川家住宅。1756年の建築で、何度も改修を経て現在に至っています。道路に面した玄関、荷物置き場、帳場に、上問屋としての面影が見られます。

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出桁が張り出した典型的な信州の伝統民家のつくり。こうして深い軒の下に佇むと、なぜか不思議な安心感に包まれます。中と外の境にあいまいさを残す日本建築のよさなのでしょうか。

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旧中込学校。明治9年の竣工。おかかえ外国人ではなく、アメリカで建築を学んだ地元出身の日本人建築家が建てたもので、当時はギヤマン学校などと呼ばれていました。八角形の楼は、ここに吊るした鐘で時間を知らせたことから、「太鼓楼」と名づけられましたが、老朽化により現在は公開されていません。華麗な外観に比べて内部は拍子抜けするほど質素な作りです。

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中込から中山道に戻り、塩名田へ。塩名田宿は中山道が千曲川を渡る手前の川越しの宿として栄え、中宿・下宿・河原宿の三つに分かれていました。千曲川が増水して滞在が延長されるため、小さい宿の割には本陣が2つもあったそうです。今も、集落の中心には旧本陣跡の豪壮な建物が残されています。塩名田宿の本陣・問屋・名主の三役を務めた丸山家。妻入で傾斜のゆるい屋根、貫を露しにした妻壁は、信州型民家の特徴をよく現しています。棟瓦には「丸山」の屋号が彫られている。右側の安っぽい物置を何とかしてほしかったのですが。。。

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塩名田宿で最も古いといわれる佐藤家住宅。曲がり材をそのまま桁梁に使用しています。それから、このあたりの民家の特徴として、建物を通りと平行にしないで少しずらし、かつ建物の一部が1mくらい奥に引っ込んでいること。斜交い(はすかい)と言われるそうですが、なぜこんな手の込んだことをするのでしょうね。街並みに変化をつける効果はある、かもしれませんが。

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老舗の大和屋酒店。同様に斜交いになっています。この隣りが「えび屋豆腐店」。油揚げが美味しいらしいです。

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塩名田から対岸の八幡に向けて、急坂を下った川べりのあたりが、河原宿。河原には、渡し船が荒れた川に流されないよう繋ぎとめていた船止め石が残されています。悪天候の日など、この宿に泊まって天候の回復するのをのんびり待ったのでしょうか。今は真っ赤に塗装された鋼橋が架けられています。ちなみに、次の八幡宿との距離は中山道で最短とか。
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このあたりには木造3階建の民家が数軒、何気に立っています。この建物はもともと「嘉登や」という屋号の旅館だったようですが、今も営業しているのでしょうか。ここの3階から、日長、川面を見てすごすというのも、まあたまにはいいかもしれませんね。

テーマ : レトロを巡る旅
ジャンル : 旅行

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fabio777

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古民家での晴耕雨読な暮らしに憧れる軟弱な熊谷都民。

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