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待乳山聖天から隅田川へ

隅田川花火大会を見に行ってきました。
もちろん、殺人的なラッシュは覚悟の上です。
お昼頃に到着し、近くを散策することにしました。しかし、それにしても暑い。。。

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東京メトロ浅草駅を出ると、何ともレトロな地下街が。
浅草は日本で最初に地下鉄が誕生したところですから、無理もないですね。

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団塊世代のお父さん方は、昔懐かしさのあまり涙がこぼれてしまうのでは?(笑) 失礼、団塊以上かな。ポスター自体は戦前のもののコピーかもしれませんね。戦後にしても古すぎるもん。

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昭和の雰囲気プンプン、ほとんど別世界です。
こんな空間が今の東京にまだ残っていたとは。
でも、不思議と落ち着く。
「日本の原風景」は、都会のど真ん中にも見つけられるんですね。

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そして、浅草七福神のひとつ、待乳山聖天へと向かいます。
浅草駅前から巡回バスの「北めぐりん」に乗り、3つ目の停留所で下りると、すぐ目の前です。
待乳山聖天は十一面観音菩薩を本地仏とする聖天様(大聖歓喜天)で、聖天様を供養する「浴油祈祷」で有名です。地元の信心深い方々が一心に祈祷しておられました。

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江戸時代以来という築地塀。
待乳山は山というだけあって、5~6m程度の「標高」があります。昔、盛土したらしく、自然の丘ではないようです。

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待乳山聖天のシンボルである「大根と巾着」。 大根は良縁成就と夫婦和合、巾着は商売繁盛を表し、境内のあちこちに大根と巾着のシンボルが見られます。

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夫婦和合を象徴する2本の二股大根。何ともユーモラス。じっと見ていると恥ずかしくなってきますね。本堂には誰でも上がれることができて、ご本尊の前には本当に大根が20本くらい、奉納してありました。

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こちらは巾着ですね。夫婦和合と商売繁盛がセットというのが、何とも現実的というか、いかにも江戸らしいというか。。。大きな宗派でないこともあってか、地元の人たちの信仰と密着した「等身大の」宗教という印象です。

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それにしても暑いです。風があるのがまだ救いです。
さて、そろそろ花火大会の会場に向かわなくては。
まだ3時前ですが、すでに会場周辺は人で埋め尽くされています。どうやら一等地はとっくに占拠されているらしく、すでにあちこちで宴会が始まり、べろんべろんで寝込んじゃった人もいます。
日が暮れて本番になったらむっくり起き上がるのかな。
さて、言問橋を渡り、歩いて歩いて、首都高速向島出口のあたりまで来ました。とりあえずこのへんでスペースを確保するしかありません。しかし、周囲はこんな有様です。

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隅田川の花火 7月25日21時24分配信 時事通信
東京、夏の風物詩「隅田川花火大会」が25日夜開催され、約2万発の花火が打ち上げられた。隅田川周辺の会場には約94万8000人(主催者発表)の見物客が集まり、真夏の夜空を彩る大輪に歓声を上げた

うわさに聞いていた通り、山手線並みの混雑でデジカメを出すこともままならず。仕方なく、新聞社さんの写真を拝借させていただきました。ゴメンナサイ。

帰りも大変で、京成線の押上駅まで歩いたものの、駅は人であふれかえっています。結局、タクシーに乗ってしまいました。タクシーの運転手さんに絶景穴場ポイントを教えていただいたので、来年はリベンジができそうです。

地元の方たちは、いろいろ穴場をご存知のようで、多少距離が離れてもアパートの隙間で見晴らしがいい場所とか、探せばいろいろありそうです。やはり、ちっとは落ち着ける場所でゆっくり鑑賞したいものですね。

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中村俊輔 スコットランドからの喝采

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実は、何を隠そう、大のサッカーファンです。特にシュンスケの大ファンです。
この7月、スコットランドのセルティックから古巣の横浜マリノスへの復帰がほぼ決まりかけていたところに、急転直下、スペインのリーガエスパニョーラの中堅クラブ、エスパニョールへの移籍が決まったことは記憶に新しいですね。合宿でがんばっている様子をニュースで見るたびに、新天地での活躍に胸が高まります。その練習熱心さと謙虚さは、チームの同僚たちや現地の人たちには驚きを持って見られているようですね。

さて、そんな日本人シュンスケを追い続けた、スコットランド人の記者によるレポートが本書です。本場ヨーロッパ人の目に、東洋からやってきた優男はどのように映っていたのでしょうか。多少は辛らつななことも書いてあるかと思ったら、全編を賛辞の嵐が覆っています。ちょっと「ヨイショ」すぎないか、と思えるくらいです。ただ一点、「英語があまりうまくない」なことを除いては。。。

イタリアのレッジーナに移籍したときから、シュンスケはすでに知られた存在だったけれど、シュンスケの名声は、2006年のチャンピオンズリーグ、マンチェスターユナイテッド戦で決めた伝説のフリーキックで、不動にものになったようです。
You Tubeでは、今もあのフリーキックを繰り返し、見ることができますが、あのうっとりするような弾道は、何度見ても飽きることがありません。静かにボールを置き、助走をつけて、身体を大きくねじってボールをこすりあげるように浮かせると、大男たちが居並ぶ壁を越えて、身長190cmの名手ファン・デル・サールの指先をかすめ、ネットに吸い込まれていきます。次の瞬間、スタジアムの割れるような歓声、そして、あの「ジャパニーズボーイ~!」という絶叫マシンのようなアナウンサーの声。
それくらい、あのフリーキックが与えた衝撃は大きかったことを、いろいろな方の証言を元に、明らかにしています。これは同じ日本人として、誇りに思えることですね。

この本では、サッカー自体の戦術的な、技術的な話はあまりなくて、サッカーというビジネスにおいてシュンスケが果たした役割を客観的に紐解こうというスタンスみたいです。一読すると、いかにサッカーが一スポーツではなく、最先端のビジネスであることを改めて知ることができます。選手たちは商品というより、サッカービジネスを最先端で演出するビジネスマン、映画産業における俳優のような存在なんですね。でも、サッカーはおそらく映画業界よりも大きいお金を動かしているでしょう。レアルマドリードの補強など、天文学的な数字ですよね。

【CONTENTS】
第1章 世界中を駆け巡ったシュート/第2章 中村俊輔とは何者なのか?/第3章 ケーキのデコレーション─さらなる賛辞/第4章 グラスゴーの五人組/第5章 スコットランドと日本の架け橋になった男/第6章 セリエA、最下位チームでの苦難/第7章 「ナカムラ」ブランドの威力/第8章 レノン、トミー、そして三シーズン連続優勝

個人的には、レッジーナ移籍のときも「えー」でしたが、セルティック移籍のときも「えー」でした。地中海の太陽がさんさんと輝く南イタリアの田舎町レッジョ・ディ・カラブリアは、横浜マリノスのイメージが染み込んだシュンスケにはあまり似合わなかったな。そして、いつも厚い雲に覆われているグラスゴーのセルティックへの移籍は、あれスペインに行きたかったんじゃなかったの?、そんな寒いところで怪我しちゃったらどうするの?と心配させるものでした。

同じヨーロッパでも、対照的な地域。そこで短いとはいえない月日を過ごしたシュンスケに、その街並みはどう映っていたのかな。聞いてみたい気がします。本人はサッカー漬けで、街並みなんてどうでもよかったかもしれないけど。でも、スタジアムを出て、街の中で、ホームチームがどう人々の生活に根付いているのか、街並み探索と関連づけて歩いて回るというのは、とても楽しいのではないかと思います。カネとヒマが無限にあればの話ですけれど。

シュンスケのおかげで、スコットランドの地理にも多少詳しくなりました。スコットランドといえばグラスゴーとエジンバラしか知りませんでしたが、ダンディー、アバディーン、それにネス湖のあるインヴァネスなど、地図で見ると、シュンスケはここでボールを蹴って走っていたんだな、という実感が沸いてきます。

結局、レッジョ・ディ・カラブリアにも、グラスゴーにも行けずに、主賓はスペインに行ってしまいました。あのバルセロナです。
今度こそは、生シュンスケを見に、そしてガウディの遺産を見に、バルセロナに行かなくては。。。

大雪山系での大量遭難について想うこと

20090721-00000019-maip-soci-view-000_convert_20090721230457.jpg 写真:毎日新聞

まずは、亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。合掌。

さて、連日のように、大量遭難事故として新聞・テレビで報道されています。こういう事故が起きると、マスコミさんたちは、ここぞとばかり、連日のように記者会見を要求し、いかにずさんな計画だったかを根掘り葉掘り聞き出し、暴露したがるようです。それで亡くなった方が少しでも浮かばれればいいけれど、そうも思えません。山登りのはしくれとして、黙ってみているだけでいいのかな、と思っているのですが。。。

まず、トムラウシ山がどんな山か、わたし自身、あまりよく知りません。だいたい、本州以南の人間でヒグマ覚悟で北海道の山に登るというのは、例の百名山ハンターか、もしくは本州とは異なる植生や景観を見せる北海道の山の魅力に取り付かれたか、いずれかでしょう。でも、北海道の山が本州の山といかに異なるものであるかということくらい、たとえ北海道の山の経験がなくたって、多少の山の経験があれば推測できるのではないかと思います。

まず、トムラウシ山がどういう山か、見てみましょう。
非常に遠いがゆえに神秘的な謎めいた山というイメージがあるようです。
アプローチが長いことは、体力的に負荷がかかることを意味します。登山口のとば口であるトムラウシ温泉まで、特急の停車する新得町から入りますが、新得町からトムラウシ温泉までがクルマで30km近くの道のりです。さらにクルマで20分かけて、やっとのことで短縮登山口に到着です。

以後、標準ルートは次の通りです(所要時間は登りのタイム)。北海道の登山ガイドブックを持っていないので、ネットで調べたものです。

短縮登山口→(20分)→温泉分岐→(1時間10分)→カムイ天上→(2時間20分)→前トム平→(2時間)→トムラウシ分岐→(30分)→トムラウシ山頂(2141m)

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http://yamachizu.mapple.net/mt01-0006/

普通に登っても片道4~5時間のコースです。途中は沢を上り下りするなど、一般登山道の整備が十分ではない箇所もあるようです。晴れれば展望が素晴らしいのはもちろんですが、その分、テン場はトムラウシ分岐の南沼付近に限定されています。登った道を引き返すピストンが望ましいと書かれています。それでも、登って下りるだけでも、行程としてはけっこうしんどそうです。

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今回のツアーの行程

ガイドブックがないので、どんなコースかわかりかねるのですが、これだけのコースを山中2泊で踏破するわけです。しかも、きちんとした山小屋ではなく、雨露をしのげる程度の避難小屋に二泊です。18人のパーティでは、先客がいようものなら、さぞ窮屈だったでしょう。加えて、アプローチが長いため、残りの2泊は、登山前と下山後にあてがわなくてはなりません。行きは旭川空港、帰りは帯広空港を利用し、ぎりぎりの日程で組まれた4泊5日ということが何となく見えてきますね。

トムラウシ山自体がそんなに楽ではない山であるのに加え、疲労のたまる4日目に、悪天候の中、トムラウシ山に登って下るという状況になったわけです。ヒサゴ沼の避難小屋にとどまろうにも、予備日もなく、おそらく食料も十分ではなかったでしょうし、午後から晴れるという予報を信じて前進するしかなかった、のでしょうか。でも北海道の標高2140mは、本州で言えば北アルプスの3000m級の山を、悪天候の中、前進することと変わりありません。「四つんばいで岩にしがみついていた」ほどの強風だったのですから。

○ガイドが3人もいて、うち2人が初めてのコースだったこと。
○北海道の山を4泊5日という長丁場なのに軽装の人がいたこと。
○テントもツェルトも持たずに北海道の山を縦走するツアーであること。
○多くが中高年、というより体力に不安のある高齢者であること。
○参加者が初めて知り合った即席パーティであること。
○登山経験や力量にどれくらいの差があるかチェックされていなかったこと。
○何かアクシデントが起きてもエスケープルートがないこと。
○行程に予備日が設けられていないこと。

これだけ懸念すべき要因が出そろった時点で、このツアーは危険だ、ということは誰が見ても何となく想像がつきます。おまけに、助かった人の中には、観光旅行のつもりで参加したと言った人もいたとか。企画した旅行会社が、どの程度、山岳ツアーの経験があったのか知らないけれど、これでは無理があったといわれても仕方がないかもしれませんね。

ガイドが北海道の人だったかどうか、これも疑問。そうではなかったのかもしれません。でなければ、北海道の山で悪天候を承知で強行することがどんな結果を招くか、専門家であるはずの3人が3人とも判断を誤るなどということがありえるでしょうか。
携帯電話は通じていたとのことなので、ガイドたちはこれからどうするか、旅行会社と連絡を取り合っていたはずです。
帰りの飛行機も決まっているし、ツアーをきちんと最後まで成功させないと、あとで精算だの何だの面倒なことが起きるのは想像に難くありません。それは仕方がないことですが、人の命には代えられません。

わたしは単独行がほとんどなので、登山ツアーに参加したことはありませんが、集団で山に登るということの意味を改めて考えさせられました。よく単独行は危険だ(現に今回の遭難事故では美瑛でも単独行の方が亡くなっています)と言われますが、互いをよく知らない集団での登山には、もし何かあった場合、これほどまでに危険をはらんでいるということがわかりました。

凍えるような寒さの中で低体温症で亡くなった方々、好きなはずの山でこのような亡くなり方をされ、さぞ無念だったと思います。改めてご冥福をお祈りします。

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テーマ : 登山・ハイキング
ジャンル : 旅行

足尾銅山へ その1

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本当に久しぶりの更新になります。
この間、どこにも行ってなかったというわけでもないのですが。。。
ということで、栃木県の足尾銅山に行ってきました。
かつてのJR足尾線は、国鉄のJR移行後、わたらせ渓谷鉄道となりました。
先日テレビを見ていたら、沿線の神戸駅が、おなじみ西村京太郎センセイ原作の鉄道ドラマの舞台になっていました。
足尾駅前にクルマを停め、構内に入ってみます。

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足尾駅は、無人駅ではありませんが、こじんまりとしています。終点ではありません。
駅前には、小さい古びた商店が一軒あるだけです。
駅名表示を見ても、今はJRではないんだな、と気づかされます。
ひとつ先の間藤という駅が終点です。
有名なトロッコ列車は、大間々駅を出発し、足尾駅が終点となります。

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気動車ではなく、ディーゼル機関車が牽引しているのですね。
関東では今や数少ない非電化区間です。

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手前が普通の車両、奥がオープン(?)というのか、ウィンドレス仕様の車両です。

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開放感は抜群ですが、雨が降ったら濡れるしかないのかな?
目指す精錬所は終着駅の間藤の先にあるため、列車から見ることはできません。
これはちょっと残念ですね。

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構内には、国鉄時代の懐かしい気動車が設置されています。
わたしは「鉄」ではないので、型式などはわかりませんが、地方路線をよく走っていた車両であることくらいは見当が付きます。奥の車両は国鉄時代のツートンカラーに美しく再塗装されていました。
落ち着いたいい雰囲気の駅ですね。

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駅舎の内部。観光客がたまに訪れる以外は閑散としています。

その2 に続く

テーマ : 建物の写真
ジャンル : 写真

足尾銅山へ その2

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足尾駅を後にし、終点の間藤駅を過ぎると、精錬所に近づいてきます。途中、踏切跡を見つけました。かつては精錬所から鉱物を大量に積んだ貨車が通過していったのでしょう。廃線跡は今まで何度も見てきましたが、せつないというか、センチメンタルな気分になりますね。

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近くには、厳重に封鎖された橋もありました。建物の廃墟は今や珍しくないですが、封鎖された橋というのはほとんど目にする機会がないためか、かなり強烈な印象を受けます。

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道なりに走るとやがて郵便局が。ここには、橋マニアなら注目の「古河橋」というのがあります。
案内文を見てみましょう。
明治18年、それまであった木造橋が消失したのを機に架設されたもので、ドイツのハーコート社製。橋台はれんが積み工法、橋梁は単径間ボストリング・ワーレントラス式(ピン接合、長48.5m、有効幅3.6m)。

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上弦材にH形鋼を使用している珍しいケースだそうです。
リベットの連なりが、いかにも「19世紀の橋」という印象です。
竣工翌年には、鉄道も通したそうですが、見た目にも危なそう。かなり揺れそうです。
新しい橋が竣工した平成5年以降は歩道橋として運用されてきましたが、現在は閉鎖されています。

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古河橋に佇むと、精錬所の姿が目に入ってきました。
渓谷沿いにずっと向こうまで続いているようです。
何だか胸が高鳴ります。こんな気分を味わうのは、いつ以来でしょうか。

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郵便局を過ぎると、一気に人家がなくなります。
左側の渓谷の向こう側に精錬所の巨大な廃墟の姿が次第に近づいてきて、思わず言葉をなくします。道が細いので、しばらく走って駐車できる場所を確保しました。かつて鉱山住宅が立ち並んでいた愛宕下というところです。

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鉱山住宅は、ぶ厚い防火壁で区画されていて、住宅が解体され更地となった今も、不釣合いな姿を見せています。何軒かは現在も残っているようです。
昭和31年には181世帯819人が住んでいたという事実がにわかには信じられません。

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そして、朽ち果てて廃墟となったまま残されている建物もあります。住宅だったのか事務所だったのか、わかりませんが。近くで見ると、ぐっと迫ってくるものがあります。

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生協の建物が今も残されています。最盛期には、買い物する鉱夫の奥さんたちで賑わっていたのでしょう。閉鎖されてからそれほど長い時間がたっておらず、妙に現実感があります。

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渓谷の向こう側の山肌は、今も廃鉱山という非日常の世界を垣間見せています。険しい沢の上部には、今にも落ちそうな鋼橋がかかっています。鉱山でなければお目にかかれない風景です。

→ その3 へ続く

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ジャンル : 写真

足尾銅山へ その3

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初めて見る足尾銅山の現在の姿。
巨大な廃墟を前に、言葉を失います。

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以下、足尾銅山の歴史を簡単に勉強してみましょう。
足尾は江戸時代に本格的に採掘が始まり、当時は寛永通宝を鋳造するなど、「足尾千軒」と言われるほど賑わっていたましたが、その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となていました。
1877年(明治10年)、古河市兵衛は足尾銅山の可能性に着目して経営権を獲得、数年間をかけて次々と新しい鉱脈を発見して急成長を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の1/4も担うまでになりました。しかし、あまりに急激な鉱山開発により有毒物質が流出、下流の多数の住民を苦しめることになる「足尾鉱毒事件」を引き起こし、、田中正造らによる反公害運動が展開されたことは有名ですね。

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戦前、最盛期には人口が38,000人近くいたこともありますが、戦争中に無計画に採掘し続けたため、次第に鉱脈は細っていきます。そして1973年(昭和48年)、閉山。96年にわたる歴史に幕を下ろしのでした。

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閉山後も輸入鉱石による製錬事業は続けられていましたが、1989年(平成元年)以降は鉱石からの製錬事業も停止しました。現在は、製錬施設を利用しての産業廃棄物(廃酸,廃アルカリ等)リサイクル事業のみを行っています。つまり、この施設は、正しくは廃墟ではなく、一部の施設を使って操業を続けている現役の施設なのですね。事務所の入口には、足尾精錬株式会社足尾精錬所、古河機械金属株式会社足尾事業所の看板が掲げられています。

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真っ赤に錆びて今にも崩れ落ちそうな鉄骨骨組が、腐食性ガスの強さを物語っているようです。世界遺産に登録する動きもあるようですが、廃墟のままで登録するのは困難でしょうから、復元することになるのかもしれませんが、個人的には廃墟のままで保存すべきかと思います。長崎の軍艦島もそうですが、復元しても時間の流れを戻すことはできないわけで。

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ズームがとらえた「足尾精錬」の文字が、静かに強烈なメッセージを放っています。

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川沿いの険しい崖に面して建てられています。

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長年にわたる採掘で緑が失われた山は、豪雨や地震により、落石や土砂崩れなどの深刻な被害をもたらします。今、足尾では、地元の方たちが中心になって、荒れ果てた山肌に失われた緑を回復させる活動が地道に行われています。

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古民家での晴耕雨読な暮らしに憧れる軟弱な熊谷都民。

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