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政局は、もういい

まだ仕事中だけど、疲れたので、気分転換にブログの更新でもしよう。


多くの人々はこう思っているに違いない。
「小沢さんはもう引っ込んでほしい」

「マニフェストに謳った公約に違反する消費税増税は、国民との約束を裏切ることである」

小沢派の連中(人たち、なんて丁寧な言葉を使う必要は最早なかろう)は、バカの一つ覚えみたいに、消費増税=マニフェスト違反=国民への裏切り=絶対反対、とばかり言っている。
ある意味、小学生でもわかる理屈である。
こんな稚拙な、幼稚な理屈で国民が納得すると思っているのだろうか。

考えてみよう。
マニフェスト選挙なんて、実質、2009年の民主党圧勝の時から始まったようなものだ。
マニフェストに掲げた公約をそのまま実現した政権が過去にあるのなら別だが、マニフェスト政治は、成熟も何も、まだ始まったばかりなんである。
自民党だって、今までマニフェストを掲げて政権を運営したことがないわけだから、民主党のことをあれこれ言える資格はないわけで。
よって、これからの選挙を通して、政治家も国民も、マニフェスト政治を熟成させていこう、というのが本来だと思う。
しかも、今は参議院で与党が過半数割れという、ねじれ状態なのだ。
マニフェストをそのまま実現しろ、などと要求するほうが馬鹿げている。
なのに、ことさらに「マニフェスト違反」を口にするのは、結局、小沢派には、自らが依って立つ「論拠」がそれしかないためである。

マニフェストに掲げた公約は、なにも財政再建だけではない。
そんなにマニフェストにこだわるのなら、消費税はマニフェストに反して増税するのはやむなしとして譲歩しつつ、その他の公約を最大限実現できるよう、精一杯努力するのが政権与党の義務である。
それをせず、消費増税だけにこだわっているのは、結局、消費税を政局にしているだけのことだ。
結局、政局を作っては、日本という国を弄んでいるだけではないか。
とても、政権与党という責任ある立場にいる人間の行動とは思えない。

日本の国債発行残高がいったいいくらあると思っているのか。
少しでも返済していかなきゃ、ギリシャみたいになるのは目に見えている。
もしも国債が暴落して金利が上がれば、日本経済は実質、終わりである。

野田さんが野党時代に街頭演説でシロアリ退治を言ってたのは確かだけど、政権与党になったんだし、シロアリを退治すれば消費税増税は不要なんて、そんな話はないでしょう。

そもそも、GDPに占める公務員給与の総額は、日本はむしろ少ないほうである。
公務員の給料が高いのは確かにいまいましい限りだけど、それを民間並みに削ったところで増税不要なんてことにはならない。
ギリシャなんて、日本とは比べものにならないし。
埋蔵金だって、方々からかき集めたって、期待していたほど埋まっているわけではない。
野党時代はともかく、政権をとって初めて、国の本当の懐事情が見えてきた。
だからこそ、消費税増税に踏み切る方向に舵を切ったわけだし。
確かにマニフェスト違反かもしれないが、国の将来を考えたら、苦渋の決断をするしかなかった。

消費税増税で国民の生活が困窮することくらい、政治家だってわかっている。
誰だってみんな、増税しなくていいならしないほうがいいにきまってる。
だけど、今やらなければ、また先延ばしになる。
その間、増税しなかったからといってGDPが順調に伸びるわけじゃない。
むしろ、ますます税収は減るだろう。

決めるべき時に決めなければ、事態を悪化させるだけである。
目先の選挙を意識した人気取り政策をやってる場合じゃない。
こんな大事な時に、首相が政治生命を賭けた苦渋の決断の結果である消費税増税を、こともあろうに政局に利用しようなんて、とても同じ政党の人間のやる事とは思えない。
野田さんははらわたが煮えくりかえっていることだろう。

小沢さんが言っている「国民の暮らしが第一」なんて、嘘八百である。
国民を欺くための目くらましに利用しているだけだ。
空中分解寸前の民主党が何とか政権を維持できているのは、野田さんをはじめ、執行部の努力の賜物である。
この一年を振り返れば、野田さんがいかにまっとうな政治家であるか、わかるだろう。
すぐ感情的になってぶち切れる前任者、相手次第で言うことがころころ変わる前前任者と比べれば、一目瞭然である。

今まで新党を作っては壊すたびに政党交付金を蓄えてきた小沢氏。
今度は、民主党の金庫から、いったいいくら持ち出すつもりなのか。

野田さんは、輿石さんの反対を振り切ってでも、造反議員を除名処分した上で、やはり解散・総選挙を断行するべきではないかと思う。
既存政党が一番恐れているのは、実は維新の橋本さんであって、小沢さんではない。既存政党対維新の構図を想定して、既存政党は総選挙後に大連立を組む腹積もりとも言われているし。

小沢さんが離党したとして、その新党がどれくらいの規模になるかわからないけど、維新の橋本さんが小沢さんと組むことはまずありえないと思われる。
そうすると、先に民主党を離党した「新党きづな」あたりを取り込もうとしているのかもしれない。
でも、政策に柱が何もなさそうな小沢新党に、数の論理だけで同調するだろうか。
「新党きづな」は、政局頼みではなく、それなりに筋を通した人の集まりだから、小沢さんと組むくらいなら、民主党に復党させる選択肢だってある。

小沢さんは政界のキャスティングボートを握っていると自負しているようだが、それに乗る人は案外少ないと思う。腰巾着と親衛隊みたいな連中しか、ついて行かないだろう。

そうなったら、後は、岩手の小沢さんの選挙区に刺客を向ければいいではないか。
たとえば、一例ではあるが、現在、東京都の副知事をしている猪瀬直樹氏など、知識や経験はもとより、国民的な人気のある候補者を小沢さんの選挙区に立てる。
もちろん、小沢さんが新党を結成したら、の話であるが。
民主党執行部にしてみれば、これだけのことをされたのだから、刺客を立てるくらいの報復は当然だろう。
民主と自民の相乗り候補だっていい。
そうすれば、全国の関心が岩手に向けられる。
大震災の後、放射能を恐れてすごすごと逃げ出し、被災地にもろくに行かなかった小沢氏の人望は、選挙区ではさすがに低下しているに違いない。
震災復興を軸に、理詰めで政策論争を展開すれば、小沢氏は本当に落選する可能性だってあるかもしれない。

もし、もし本当に小沢氏が落選すれば、小沢新党は空中分解に陥るのは決定的だろう。
しかも、刑事被告人の身である。
グループに有力な後継者がいるわけでもない。

議員定数の削減という、「政治家自身が身を削る」ことができないのは、経験の乏しい政治家が数の論理で寄せ集められ、政局に利用されているためである。
そんな議員はいらないよ。
本当に国民のために汗をかく少数の政治家が、優秀な官僚組織を操縦し、国民の意思を見定めつつ、正しい方向に引っ張っていってほしい。
もし小沢新党が空中分解したら、その分、まるまる議員を削減すればいいじゃないか。

政局は、もういい。
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テーマ : 気になったニュース
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森崎書店の日々

学生の頃は神保町でバイトしていたこともあって、神保町は庭みたいなところです。
新刊を買うカネがなかったこと、まわりにいた先輩が古本好きだったこともあり、私も古本の世界に引き込まれました。
新刊書の、あのページを開けた瞬間にインクの匂いがプーンと鼻につくのもいいけれど、新刊にはない味が古本にはあります。
ページの端が黄ばんでいたり、ラインが引いてあったり、書き込みがあったり、巻末には署名がしてあったり。
押し花がはさんであったこともあったなあ。
中には、前所有者の髪の毛などが出てきたり。

当たり前のことですが、新刊に近いほど値段は高く、汚れているほど値段は下がります。
ても、古本の「汚れ」って、単なる汚れじゃない、じゃないですか。
その時その時、その本に出会った人たちの思い、感じたこと、印象などが、アンダーラインや書き込み、時に頭髪などの形で引き継がれていく。けっして「汚れ」の一言で片づけられるものじゃありません。

BOOKOFFみたいに、ただ安いだけじゃないねんですね。
神保町には、古書店がたくさん集積しています。
世界一の古書店街と言われています。

そんな神保町を舞台にした映画が、「森崎書店の日々」です。

morisakishoten.jpg

会社の同僚の彼氏に捨てられ、深く傷ついた若い女性が、会社を辞め、おじが経営する神保町の小さい古書店の2階に転がり込み、まったく縁のなかった古書店の世界での新しい生活が始まります。
初めて見る古本の山に圧倒されつつも、やがて、目をつぶって一冊を手に取り、読み終わるともう一冊という感じで、次第に本の世界に引き込まれていきます。
人がすれちがうのがやっとの、古書店という小さな舞台で、静かな時間が流れていく。

morisakishoten1.jpg

この町は、本と同じ。
開く前は静かだけど、ページを開いた瞬間、そこにはとてつもない世界が広がっている。
そして、読み終わえれば、もとの静けさに戻ってしまう。

そんなセリフが、映画の中で出てきます。
なかなかいい表現ですね。

淡々とした映像は、そうした神保町らしさが凝縮されています。
貧乏町などと自虐的に言ったりもしますが(笑)

morisakishoten2.jpg

おじ役の内藤剛士さんと、めい役の菊池亜希子さん、なかなかいいコンビでした。
撮影に使われた建物は、東京堂書店の裏のあたりにある、戦前に建てられたかなりくたびれた建物ですが、この映画の舞台としてはぴったりだったのかもしれません。
知っている本屋さんがたくさん出てくるので、神保町フリークにはまさに必見の一作です。

公式サイトには、イラストベースの神保町マップが出ています。
おいしいコーヒー屋もたくさんあるし、ちい散歩するにはいいところですよ。

阪急電車 片道15分の奇跡

hankyuu1.jpg

阪急電車と言えば、チョコレート色がステータスですね。
マルーン色、あずき色とも呼ばれてるみたいですが、私的にはチョコレート色と呼ぶのがしっくり来ます。
難波から三ノ宮までは、JR、阪急、阪神の3つが並行しています。
いずれに乗るかは、人それぞれだろうけど、私は断然、阪急派、ですね。運賃や到着時間うんぬんじゃなく、どうしても阪急に乗りたい。理由はよくわからないけど、阪神やJRにはない何かがある。

なじみのない土地に行ったとき、旅の印象の中で、どういう電車に乗ったかが占める割合はかなり高いと思います。
阪急のチョコレート色は、とりわけ、旅の記憶の中で強い印象となって残るでしょう。
軽くて燃費のいいステンレス車両が増える中、阪急は昔から変わらない全身チョコレート色の車両で運行しています。仮にステンレス車両にして、チョコレート色の帯を入れたところで、阪急らしさはほとんどなくなってしまう。

こういうアイデンティティみたいなものを発する電車って、関東にはあるだろうかと思ってしまいます。
だって、東京から千葉まで行くのに、JR総武線か京成線かJR京葉線かなんて、別にどれでもいいですもん。

阪急電車、いいですね。すごいです。そのものが映画になっちゃうんだから。「阪急電車-片道15分の奇跡」は、まさに阪急電車を舞台とした物語です。

img_479145_11337002_1.jpg

なんかほんのりしてて、よかったですね。
めちゃくちゃおもしろかった。

言っときますが、決して「鉄」向けの映画ではありません。

西宮北口駅から阪急宝塚駅までの15分間で、偶然隣り合わせになっただけの見ず知らずの他人同士。

OL、女子大生、女子高生、おばあちゃん、小学生、いろんな年代の人たちが、それぞれ、どうにもならない思いを抱え、でも誰にも理解してもらえず、人に打ち明けることもできない思いを抱いて日々を生きている人たちが、電車でたまたま隣り合わせになる。

そんな赤の他人同士が、ふとしたことから、少しずつ心を開いていく。
人間、何かしらベクトルを発していれば、それを受け止めてくれる人が必ずいるんだな。
何かしら思いを抱えた人間同志なら、ちょっとした言葉を交わすだけで通い合えるんだな。

そんなことを教えてくれます。

あくまで他人なんだけれど、言葉は交わさなくても通じ合う何かがある。けど、べったりはしないという、適度な距離感。。。他人だからこそ、わかりあえる、言い合えることがあるのかもしれません。

見知らぬ人たちの思いが、車両の中で交錯するという設定では、少し前に見た、函館を舞台にした映画「海炭市叙景」も同じでした。
函館名物の市電の中で、それぞれの人生を背負った人たちが車内の空間を共有している。でも、この映画では一緒に乗っているというだけで、お互いの心が溶け合うことはなかったし。
そういえば、南果歩さん、谷村美月さんが両方とも出演しているというのも偶然ですね。

hankyuu3.jpg

見ず知らずの人たちが乗り合わせる、電車という空間。
考えようによっては、それは実にすごい空間なのかもしれません。

偶然、乗り合わせた人たちには、皆それぞれ、人生の機微を背負っています。
運命というか、宿命みたいなものというか。
順番に話をしていけば、それぞれの人生の歴史を聞くことができるかもしれない。
もちろん、自分が発するベクトルにシンクロする人は、ほんのわずかかもしれません。
それでも、満員電車で揺られながら、この中に、自分にシンクロしてくれる人がいるかもしれないと思うと、何かほっとするのではないかな~。
逆に、こちらに向かってくるベクトルに気づいてあげなきゃ、という場面だってあるでしょう。

hankyuu2.jpg

人間観察が好きという人、多いと思います。
私もそうですが、ヒマな時、カフェに座っていると、道行く人たちが、どこに何しに行く途中なのだろうか、なんとなく気になります。勝手に想像をふくらませたりすることも。
通勤時間が長い(JRに1時間乗りっぱなし)もので、特に4人掛けのボックス席に座った時は、一緒に座った方たちが何とはなしに気になります。

仮に、電車に乗り合わせた人たちを赤の他人じゃないと考えようとすれば、何かこう、とてつもなく、世界が広がるような気がしてきます。
電車という日常を舞台にした、非日常の物語。でも、決して非日常ではない。。。

なんだか、電車に乗るのが楽しみになるような映画でした。


蛇足ですが、さっき記事を書いていて、「15分の奇跡」を「15分の軌跡」と間違えてしまいました。
すぐ直したけれど、考えようによっては「軌跡」でもいいのかもしれません。
15分の軌跡の中にそれぞれの人生の機微が凝縮されている、と考えれば。

2011年公開。
写真は、映画「阪急電車」公式ホームページからお借りしました。

死刑制度は今のままでよいのだろうか

大阪で何の罪もない男性と女性が刺し殺された。
「自殺したかったが、できなかったので、誰でもいいから殺して死刑になろうと思った。。。」

もう、いい加減にしてほしい。

このセリフ、過去にも何度か聞いたことがある。
通り魔的な犯行を引き起こす人間が、決まって言う捨てセリフである。
見ず知らずの人を巻き添えにするなど、狂気の沙汰ではないか。

どっかの新聞は、こういう事件が起きるたびに、事件の背景として、長引く不況、社会的弱者、前科者の社会復帰うんぬんなどと言い出すのだろう。まるで社会が悪いのだ、とでも言わんばかりに。そして、かの人権屋弁護士の存在。きっと、自分の出番だ、と思っているに違いない。

考えただけで、無性に腹が立つ。


最近、人の「死」がどんどん軽くなってはいないだろうか。


高校生の頃、友達の影響で、三島由紀夫を読んでいた。
一番ショックを受けたのが「憂国」だ。
自ら決起して自衛隊市ヶ谷駐屯地にたてこもり、切腹した三島さんの心の中が、ほんの少しだけ垣間見れたような気がした。作家だから、「死」に極端なまでの美学を描いていたのだろう。切腹こそが極限の美であり、美しい死を遂げられなくなったら、もう生きている意味はない。そして、45歳というギリギリのラインを設定して人生を逆算し、すべてを計算づくのうちに組み立て、「美しく死ぬために生きる」ことを実践した。

三島さんの思想はともかくとして、美しい死とは決してロマンティックなものなんかじゃない。
それは「憂国」を読めばわかる。
これほどの苦痛を乗り越えなければ、「美しい死」には到達できないのか。。。

それくらい「死」というものは重い、ということを教えてもらった。
17歳のガキには、ちと強烈すぎたかもしれない。


今の政権には、死刑に反対する人たちがいる。
不思議な人たちだ。
日本は三権分立に基づく法治国家である。
司法が下した死刑の判断は重く、尊重されなくてはいけない。
あたりまえだろうに。

また、今の政権には、絞首刑に代わる新しい刑罰を模索する動きがある。
絞首刑が残虐な刑罰だから、ということだろうか。
でも、考えてみてほしい。
薬物注射なんて、眠ったまんまで施せば、まったく苦しまずに死ねてしまうだろう。
それにいかほどの刑罰の意味があるのだろうか。
人をさんざん苦しめた死刑囚を、できるだけ苦しませずに死なせるって、論理が破たんしていないか?


日本の切腹は、残虐だ、野蛮だ、という向きはあるかもしれない。
でも、戦で負けたら腹を切るというのは、ひとつの伝統であったことは確かだと思う。
(文化、と言えるのかどうかはわからないけれど)

要は、

自らの手で自分自身の存在に決着をつける

という美学である。


大阪のミナミで通り魔事件を起こしたこの男は、見ず知らずの人を30回も刺した。
今度は自ら腹を切る番であろう。

自らの腹を刺して、その痛みを思い知って初めて、「死」の意味を少しはわかることだろう。
そして、その時はじめて、自分が見ず知らずの人にやらかしたことのとんでもなさを理解するだろう。

薬物注射じゃ、結局、「死」の意味をまるで知ることなく、感じることもなく、眠るように存在が消えるだけである。
これじゃ、何の意味もない。
せめて「人を殺した」ということがどういうことだったか、自らの身体で思い知った上で、旅立ってほしい。
でなきゃ、被害者や遺族は本当に浮かばれない。

絞首刑にしたって、板を落とすスイッチは死刑囚自らがスイッチを押すべきではないだろうか。
最期くらい、自らの意思で、自らの手で、自らに決着をつけてほしいのだ。

そして、できれば、刑の執行は、死刑囚自らの「自己申告制」であってほしいと思う。
法務大臣の署名をいつまでも待つのではなく、自ら志願し、執行される形であってほしい。
国家権力に「殺される」のではなくて、自らの意思で自らに決着をつける。
そうすれば、死刑宣告後の日々は、いつ来るかわからない執行に対する不安の日々から、純粋に自らとの葛藤の日々へと変わるのではないだろうか。


死刑になりたいから無差別殺人をする奴がいるなら、
死刑はずいぶん楽な刑罰である。
自ら死ぬ勇気もない奴が確実に死刑にしてもらおうとするなら、
その現実的手段として、無差別殺人を選ぶことは、今後もありえるだろう。

こんなのって、およそありえない論理じゃないか。

死刑が軽く見られている。
死刑とは特別なものではなかったか。
「死」が日常化した分だけ、死刑は特別なものではなくなってきているのだろうか。

これは、犯罪抑止力の観点でも、恐ろしいことである。

仮に、今の死刑がフランスみたいにギロチンだったら、見ず知らずの人を殺して死刑にしてくれ、などとは言わないだろう。楽に死なせてもらえるから死刑を望むのだ。

だったら、なおのこと、死刑は自己申告制であってほしい。
死刑とは、人に殺してもらうのではなく、死刑囚が自ら進んで命を断つことで、せめてもの罪ほろぼしをするものであってほしい。
国家による自殺ほう助だ、などとわけのわからないことは言わないでほしい。

加害者が自らの意思で最期にけじめをつけることで、被害者やその肉親も、少しは救われるんじゃないか。


残された者は、なぜ死ななくてはならなかったのか、その死の意味を考え、悩み、少しずつ納得しながら時間の経過とともに受け入れていくのだろう(おそらく)。

仮に大震災や交通事故なら、仕方がなかったのだと、最終的に心の帳尻を合わせられるかもしれない。

だけど、今回のこの事件では、心を納得させられる要素がなにひとつない。

たまたまそこにいただけで、こんなしょうもない奴の気まぐれの犠牲になった。

たとえ何十年かかろうが、決して受け入れることはできないかもしれない。

これほど残酷なまでに無意味な死があるだろうか。

これほどまで無意味な死を受け入れざるを得ない方たちの思いは、いかばかりだろう。

いずれにしても、犠牲になった方は本当に浮かばれない。
その無念さを想像するに、本当に胸が痛む。

よって、死刑制度が今のままでよいとは到底思えないのである。

ご冥福をお祈りします。
合掌
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Author:fabio777
古民家での晴耕雨読な暮らしに憧れる軟弱な熊谷都民。

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