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『砂の器』の風景

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年末から年始とずーっとバタバタしていて、気がついたら2月になっていました。
何とも月日の流れるのは早いものです。

この週末、風邪で体調を崩したこともあり、久々に自宅で過ごしました。
寝込むほどではないし、暇つぶしにTSUTAYAに行くと、見慣れたパッケージに目が留まりました。
「砂の器」
おお、なんとも懐かしい名前です。
原作を読んだのは中学生の頃、映画を見たのは大学生の頃でした。
何度も見たり読んだりしているのですが、ふと、また手にとって見たくなりました。

(注:「砂の器」の物語の何たるかは、他サイトでの解説をお読みあそばされ)

松本清張先生は、生前、自分の作品が映画化されると、たいてい失望するとおっしゃっています。
松本清張ファンとしても、私を含めて、同じ意見の人は多いと思います。
特に、この「砂の器」はその代表作みたいなもので、原作を何度も読んだ人間には、映画を見たときの違和感は半端じゃなかった。「え、何これ~」って思いましたもん。

でも、あれから数十年たってもう一度見てみると、これ(映画)はこれでよかったのかな、とも思えました。
要は、原作と映画は別の作品だと割り切ればよいわけですね。映画単体としてみれば、実によく出来ていると思います。かけた予算も半端じゃないだろうし。

原作から思い切って削った(というか、創作した)部分のマイナスを補って余りある映像美です。
それは、昭和10年代、重病を患った遍路の親子が乞食同然の放浪の旅を重ねる、昭和10年代の里山の風景。「放浪の風景」を春夏秋冬の映像美を通して描き出すというのは、映画にしか出来ないことであるし。

実際の映像は、日本全国をロケハンで回ったとのことです。冬の景色は、津軽の竜飛岬で撮影され、俳優さんもスタッフも凍傷の危険を感じながらの撮影だったとか。
原作はともかくとして、この映画の主題は、トリックの解明ではなく、大方の解説にあるとおり、音楽家の出生の秘密に着目することで、親子の情の深さを描き出そうとした、点にあるのでしょう。

数年前に出雲の奥地を旅したとき、砂の器の舞台となった、亀嵩、三成あたりを訪れました。
清張ファンなら必ず立ち寄るであろう亀嵩駅にも行ったし、近くの記念碑にも行きました。

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(実際の撮影は別の駅で行われたのですが)
それに、山深い奥出雲の集落の風景が、物語と妙にシンクロして見えました。
どうしても、そういう目で見てしまうから、かもしれないけれど。
砂の器の物語の舞台設定が、なぜ奥出雲だったのか。
それは、出雲地方には古代より東北弁に似たズーズー弁が使われていたという事実を文献で知った清張氏が、物語に組み込んでみようと着想したのでしょう。
ただ、この方言分布の意外性にこだわらなくたって、山深い田舎であれば、別に日本全国どこでもよかったんじゃないか。
でも、実際に訪れてみると、砂の器の物語は、ここから生まれるべくして生まれたのかな、と妙に納得する部分がありました。

この「砂の器」の原作が刊行されたのは1960年、私が生まれる前のことです。
新幹線や東名高速道路が開通する前、東京から大阪まで在来線の特急で6時間以上かかっていた時代です。もちろん海外へ行くなど夢のような時代だったわけです。
昭和30年の「もはや戦後ではない」宣言から数年の間に、清張氏はこれを書き上げました。
これから高度成長を遂げていこうという時代にあって、清張氏はなぜ、これほど暗い物語を考え出したのでしょうか。
そして、なぜ、ここまで「国民的名作」として人々に受け入れられてきたのでしょうか。
深読みするわけではないけれど、清張氏は、やがて到来する高度経済成長時代の後に来る時代まで予測していたのではないか、ふとそんな気がしないでもありません。


それにしても、です。
話をぶり返しますが、やはり、映画と原作は別作品だと思いたいです。
映画化するに際して、捨象したこと、創作したことがたくさんあります。
(でないと、映画化はとても不可能とされてきた作品だし、仕方がなかったわけですが)

一番大きい差異は、
○ミュージックコンクレート(「寂滅」)がピアノ協奏曲(「宿命」)になった
○ヌーボーグループが消えた

もともと、孤児であった和賀英良なる人物には音楽の素養はなく、最新音響技術を駆使したミュージックコンクレートという訳のわからない現代音楽で観客を煙に巻いていただけです。
評論家の関川重雄も、同様に、内容のまったく伴わないううわべの観念だけの議論を展開してただけの人間です。
他の建築家やら画家やら演出家やら劇作家やらの脇役もすべて同じ。
要は、ヌーボーグループとは、過激派の学生と同じようなもんで、長い時間をかけて蓄積されてきた伝統やら権威やらをすべて否定して、観念で遊んでいるだけの空虚な人間たち。
それでいてプライドだけは人一倍強い。
人のことはあれこれ言うくせに、自らは大したものは創り出せないわけです。
清張氏が最も嫌いとするタイプですよね。
物語上で、彼らが自己崩壊していく様を描き出し、内心拍手喝采、「ざまーみー」的な気持ちでいたのでしょう。
砂の器というタイトルには、もともとそういう意味を持たせていたのだと思います。
でも、映画には関川重雄もヌーボーグループも登場しません。

そもそも、孤児であった主人公がどこでピアノを習ったのか、誰が考えてもあまりにも現実離れしすぎていますよね。
亀嵩を出奔し、大阪で自転車屋の丁稚奉公をしていた和賀少年は、大空襲で一面が焼け野原になり、戸籍も原簿も消失したのをいいことに、死んだ自転車屋の夫妻の子供に成りすまして戸籍を「創作」します。そういう知能に秀でていた主人公が、暗い過去を隠し、成り上がるために目をつけた、ミュージックコンクレート。そして、内容を伴わない空虚な成り上がり集団としてのヌーボーグループ。

この2つは、砂の器の物語から、絶対に外せないファクターだったんです。
清張氏が失望したのも、うなづけますよね。
私個人としては、何時間、たとえ4時間かかろうと5時間かかろうと、前編後編の構成になろうと、原作にできるだけ忠実に描いてほしかったなという気がします。
それは、やりようによっては可能だったんじゃないか、と。

それと、和賀英良が容疑者であると早い段階で決まってしまったこと。
他に真犯人候補がいる中での、犯人探しの要素を捨ててしまった。
原作では、和賀英良が電波法違反で事情聴取を受ける直前まで、関川重雄犯人説も匂わせています。
つまり、この映画は「ミステリー」ではないということですね。

後はエンディングでしょう。
原作のエンディングは、こうです。
渡米直前の羽田空港の出発ロビー。
若い吉村刑事が、今西刑事に促され、搭乗を待つ和賀英良に逮捕状を見せ、手錠をかけずに肩に手をかけて、警察署の車に連行します。
空港に見送りに集まった人たちが、搭乗する予定の飛行機のタラップに和賀英良が現れず、おかしいおかしいとざわめき始めたところに、美しい女性の声で場内アナウンスが流れる場面でエンディングを迎えています。
この場面はぜひとも映像化してほしかった。

映画では、超満員の大ホールでピアノ協奏曲「宿命」を指揮しながら自らもピアノを演奏する和賀が、演奏終了後、満場の拍手の渦の中に放心している。そして、舞台の袖で手に一枚の紙切れを持って立つ今西と吉村の両刑事。
ここで終わっています。
でも、緞帳が下りた後、両刑事が和賀に歩み寄り、紙切れを見せられた和賀が床に崩れ落ちる、というシーンで終わってほしかったと思いますね。
ちょっと和賀を美化しすぎた感がなくもありません。
成り上がった挙句の最期を見せなければ、この物語は完結しません。

それと、原作も映画も触れなかった視点。
自分のすべてを虚像で覆っていた人間が、その化けの皮を剥がされたら、どうやって生きていけばいいのか。和賀英良が、残された人生を本浦秀夫として生きていくとは、どういうことなのか?

人に言えない醜い過去は、醜いがゆえに隠そうとします。
どんなに説明したって、他人にわかってもらえるはずがないから。
しかし、人間は誰だって過去の延長上に生きているのであって、どんなに消したくたって消せやしない。
仏教で言う「業」みたいなものなのかな。

その意味では、原作も映画も、方法の違いはあれ、落としどころは一緒だったのかもしれません。

おわり


昭和49年松竹
監督 野村芳太郎
主演 丹波哲郎、森田健作、加藤剛、島田陽子、緒方拳、山口果林、加藤嘉など。
他にも、渥美清、菅井きんなど、実に多彩な顔ぶれでした
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古民家での晴耕雨読な暮らしに憧れる軟弱な熊谷都民。

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