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ここより下に家を建ててはならない

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神社や寺に行くと,よく石碑が立っています。
そこに何が書いてあるか,見ようとするのは,古文書や郷土史などに関心がある「物好き」さんくらいか。
私も含め,大多数の人たちは無関心に通り過ぎていきます。

そこで,想像力の出番です。

当時,石に碑を刻んだ人の心にタイムスリップしてみよう。
紙と筆くらいはあっただろうに,なぜ,紙ではなく石を選んだのか。
大きい石を切り出して運び,石に文字を彫り,建てるという根気と忍耐のいる作業を通して,彼は何を訴えたかったのか。。。

明治時代の三陸の人たちは,大津波で街が根こそぎ破壊され,集落のほとんどの人が亡くなってしまうような,今回の大震災以上の悲惨な経験をして,津波の恐ろしさを身体の底から,いやというほど思い知らされた。
こんな思いは,誰にも二度としてほしくない。
生き残ったわずかな人たちは,亡くなった方たちを思い,泣きながら,指先に思いを込め,懸命に石碑を彫った。


カメラもビデオもネットもyoutubeもなかった時代です。
大津波の凄まじさをどう表現すればわかってもらえるか。

「とにかくすごかったんだ。すさまじかったんだ」
「海が壁のようになって上から襲ってきたんだ」
「あれに襲われたら絶対に生きては帰れない」

どれだけ形容詞を並べたって、あの大津波の本当の恐ろしさは、たぶん体験した本人にしか分からない。
現代に生きる私たちであればなおのこと、映像なしに理解できるはずがない。

つまり、大津波のすごさを言葉で伝えることの限界を、すでに見抜いていたのでしょう。

だから、いかに大津波がすさまじかったか、回りくどい説明はせず、ただ一言

「此処より下に家を建てるな」

とだけ書き遺した。

「この一言さえ伝わってくれれば、悲劇は避けられる」

おそらくそう思ったのでしょう。


彼が訴えたかった相手は誰か。
50年後? 100年後? 1000年後?
自らが死んでからも世代を重ね延々と続いていく,気の遠くなるような先に生きる人のことまで,彼は見越していたのでしょうか。

いまや,スマホの話題で持ち切りの今日この頃。
いずれ携帯電話市場の7割はスマホになる,と言われています。
生活そのものがスマホを中心に回り始め,非スマホ=時代遅れとして,社会の流れから弾き飛ばされていく。
そんなことにもなりかねません。
社会の流れに遅れないように必死にしがみついていなきゃいけない日本人。
不謹慎かもしれないけど,津波に流されまいと必死に何かにつかまっている姿と一瞬だぶります。

スマホだって石碑だって,「情報を伝える媒体」には違いない。それなのに,これほどまでに違和感さを感じるのは,なぜなのか?

もしスマホ時代に生きる私たちが,未来の世代に何かメッセージを残すとしたら?
もし石碑を建てるとしたら,私たちは未来の世代にどんなメッセージを彫るだろう?

ちょっとペシミスティックかもしれないけれど,そんな時空を超えるメッセージなんて,たぶん何も出てこないと思います(ずいぶんさみしい話だ)。

よく,小学校とかでタイムカプセルを校庭に埋めたりします。でも,それってせいぜい10年とか20年,「未来の自分たち」に対するものなんですね。
本や映画を通して,100年前,500年前,1000年前に生きていた人のことをイメージすることはできます。
それでは,100年,500年,1000年先に生きる人のことをイメージできるか?
絶対できないでしょう。
いや,10年先,20年先のことだってイメージできないかもしれない。

社会の変化のタイムスパンがあまりにも短すぎます。

インターネットの誕生で社会のありようがガラッと変わったように,これからどんな技術が開発され,社会がどのように変わるのか。
私たち40代以上は,ほんのつい最近まで,パソコンも携帯もネットもなかった時代に生きていたわけだし。そして,70代以上は,ろくに電話もFAXもコピーもなかった時代に生きていたわけだし。
100年後,500年後,1000年後がどんな社会になっていて,人々がどんな生活を送っているのか,想像すらできません。

だから,何を伝えればいいのか,わからない。
未来の世代にとって,何が重要な情報なのかがわからない。

それに,100年前の言葉が「古文」と言われるように,100年後の人たちにしたら,今の日本語は「古文」でしかないでしょう。仮に私たちが何かメッセージを刻んだところで,彼らが読んでも意味すらわかってもらえないかもしれません(これまたさみしい話だ)。

かくして,私たちは心の中で,未来の世代との間に決定的な溝,断絶を作ってしまっています。

その日その日が勝負の資本主義には,未来の世代を見越す余裕はありません。
資本主義の渦の中で生きる私たちも,またしかり。
自分の残された人生を無事に生きるだけでせいいっぱい。
気にするとしても,せいぜい孫の代まででしょう。

だから,900兆円もの途方もない国債を垂れ流しても,危険すぎる高レベル核廃棄物の山を後世に残しても,別に恥ずかしくもないし,何とも思わない。


デジタルデータの平均的な寿命が何年かわからないけど,下手したら10年ないかもしれません。
ほんの20年ほど前の5インチフロッピー(!)なんて,中身を見ることすらできません。
それに,電気がなければ,読むことも見ることも聞くことも伝えることも何もできない。

紙だって,いずれは消えて自然に還ってしまう。
鉄は錆びて朽ちてしまう。
コンクリートもボロボロになってしまう。

結局,最後に残るのは石碑

なんですね。
100年後,500年後,1000年後,そして,人類が滅亡しても,石碑と高レベル核廃棄物だけは,土の中に埋もれて生き続けるでしょう。
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