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死刑制度は今のままでよいのだろうか

大阪で何の罪もない男性と女性が刺し殺された。
「自殺したかったが、できなかったので、誰でもいいから殺して死刑になろうと思った。。。」

もう、いい加減にしてほしい。

このセリフ、過去にも何度か聞いたことがある。
通り魔的な犯行を引き起こす人間が、決まって言う捨てセリフである。
見ず知らずの人を巻き添えにするなど、狂気の沙汰ではないか。

どっかの新聞は、こういう事件が起きるたびに、事件の背景として、長引く不況、社会的弱者、前科者の社会復帰うんぬんなどと言い出すのだろう。まるで社会が悪いのだ、とでも言わんばかりに。そして、かの人権屋弁護士の存在。きっと、自分の出番だ、と思っているに違いない。

考えただけで、無性に腹が立つ。


最近、人の「死」がどんどん軽くなってはいないだろうか。


高校生の頃、友達の影響で、三島由紀夫を読んでいた。
一番ショックを受けたのが「憂国」だ。
自ら決起して自衛隊市ヶ谷駐屯地にたてこもり、切腹した三島さんの心の中が、ほんの少しだけ垣間見れたような気がした。作家だから、「死」に極端なまでの美学を描いていたのだろう。切腹こそが極限の美であり、美しい死を遂げられなくなったら、もう生きている意味はない。そして、45歳というギリギリのラインを設定して人生を逆算し、すべてを計算づくのうちに組み立て、「美しく死ぬために生きる」ことを実践した。

三島さんの思想はともかくとして、美しい死とは決してロマンティックなものなんかじゃない。
それは「憂国」を読めばわかる。
これほどの苦痛を乗り越えなければ、「美しい死」には到達できないのか。。。

それくらい「死」というものは重い、ということを教えてもらった。
17歳のガキには、ちと強烈すぎたかもしれない。


今の政権には、死刑に反対する人たちがいる。
不思議な人たちだ。
日本は三権分立に基づく法治国家である。
司法が下した死刑の判断は重く、尊重されなくてはいけない。
あたりまえだろうに。

また、今の政権には、絞首刑に代わる新しい刑罰を模索する動きがある。
絞首刑が残虐な刑罰だから、ということだろうか。
でも、考えてみてほしい。
薬物注射なんて、眠ったまんまで施せば、まったく苦しまずに死ねてしまうだろう。
それにいかほどの刑罰の意味があるのだろうか。
人をさんざん苦しめた死刑囚を、できるだけ苦しませずに死なせるって、論理が破たんしていないか?


日本の切腹は、残虐だ、野蛮だ、という向きはあるかもしれない。
でも、戦で負けたら腹を切るというのは、ひとつの伝統であったことは確かだと思う。
(文化、と言えるのかどうかはわからないけれど)

要は、

自らの手で自分自身の存在に決着をつける

という美学である。


大阪のミナミで通り魔事件を起こしたこの男は、見ず知らずの人を30回も刺した。
今度は自ら腹を切る番であろう。

自らの腹を刺して、その痛みを思い知って初めて、「死」の意味を少しはわかることだろう。
そして、その時はじめて、自分が見ず知らずの人にやらかしたことのとんでもなさを理解するだろう。

薬物注射じゃ、結局、「死」の意味をまるで知ることなく、感じることもなく、眠るように存在が消えるだけである。
これじゃ、何の意味もない。
せめて「人を殺した」ということがどういうことだったか、自らの身体で思い知った上で、旅立ってほしい。
でなきゃ、被害者や遺族は本当に浮かばれない。

絞首刑にしたって、板を落とすスイッチは死刑囚自らがスイッチを押すべきではないだろうか。
最期くらい、自らの意思で、自らの手で、自らに決着をつけてほしいのだ。

そして、できれば、刑の執行は、死刑囚自らの「自己申告制」であってほしいと思う。
法務大臣の署名をいつまでも待つのではなく、自ら志願し、執行される形であってほしい。
国家権力に「殺される」のではなくて、自らの意思で自らに決着をつける。
そうすれば、死刑宣告後の日々は、いつ来るかわからない執行に対する不安の日々から、純粋に自らとの葛藤の日々へと変わるのではないだろうか。


死刑になりたいから無差別殺人をする奴がいるなら、
死刑はずいぶん楽な刑罰である。
自ら死ぬ勇気もない奴が確実に死刑にしてもらおうとするなら、
その現実的手段として、無差別殺人を選ぶことは、今後もありえるだろう。

こんなのって、およそありえない論理じゃないか。

死刑が軽く見られている。
死刑とは特別なものではなかったか。
「死」が日常化した分だけ、死刑は特別なものではなくなってきているのだろうか。

これは、犯罪抑止力の観点でも、恐ろしいことである。

仮に、今の死刑がフランスみたいにギロチンだったら、見ず知らずの人を殺して死刑にしてくれ、などとは言わないだろう。楽に死なせてもらえるから死刑を望むのだ。

だったら、なおのこと、死刑は自己申告制であってほしい。
死刑とは、人に殺してもらうのではなく、死刑囚が自ら進んで命を断つことで、せめてもの罪ほろぼしをするものであってほしい。
国家による自殺ほう助だ、などとわけのわからないことは言わないでほしい。

加害者が自らの意思で最期にけじめをつけることで、被害者やその肉親も、少しは救われるんじゃないか。


残された者は、なぜ死ななくてはならなかったのか、その死の意味を考え、悩み、少しずつ納得しながら時間の経過とともに受け入れていくのだろう(おそらく)。

仮に大震災や交通事故なら、仕方がなかったのだと、最終的に心の帳尻を合わせられるかもしれない。

だけど、今回のこの事件では、心を納得させられる要素がなにひとつない。

たまたまそこにいただけで、こんなしょうもない奴の気まぐれの犠牲になった。

たとえ何十年かかろうが、決して受け入れることはできないかもしれない。

これほど残酷なまでに無意味な死があるだろうか。

これほどまで無意味な死を受け入れざるを得ない方たちの思いは、いかばかりだろう。

いずれにしても、犠牲になった方は本当に浮かばれない。
その無念さを想像するに、本当に胸が痛む。

よって、死刑制度が今のままでよいとは到底思えないのである。

ご冥福をお祈りします。
合掌
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古民家での晴耕雨読な暮らしに憧れる軟弱な熊谷都民。

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