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海炭市叙景

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何かと忙しくてばたばたしてて、気が付けば3か月ぶりの更新になってしまった。
さて、この週末、久しぶりにツタヤに行き、最新作の棚を見ていたら、ふと目が留まった。

『海炭市叙景』

函館を舞台にした映画らしい。
聞いたとことのない、初めて見るタイトルだけど,何かピーンと来るものがあった。
函館には3回くらい、行ったことがある。
最初は学生時代、夜行の急行で青森まで来て、青函連絡船に乗った。
船の甲板から函館の市街が近づいてきて、一歩を下したときは、こみ上げるみたいな特別な感慨があった。
飛行機では絶対に味わえない感覚だと思う。
その日は一日、市内を歩いて回った。雪に包まれた古くて重厚な雰囲気の街並みが広がっていた。

函館というとどうしても観光地のイメージがあるが、実際に訪れてみると、北海道の玄関口としての歴史の深さを強く感じる。
札幌や旭川、帯広など他の都市のように、碁盤目状に整然と整備されているわけではなく、どちらかというと内地の延長でありながら、かつ津軽海峡という荒々しい海で隔てられている、複雑なアイデンティティみたいなものを感じたのであった。

この映画は、学生当時に見た小栗監督の「伽耶子のために」で映画デビューした南果歩が出ているのも気になった。

さて、映画はというと、バックミュージックもなく、ひたすらモノトーンの映像が淡々とつづられていく。
「観光地」函館を象徴するシーンは、夜景くらいで、ほとんど登場しない。登場する人物は皆、「観光地」函館とは無縁の人たちばかり。

図らずも、「伽耶子のために」と似た雰囲気の映画だった。

よくわからない映画だったけど、不思議と印象に残った。
翌朝になったら、いろいろなシーンがよみがえってきた。

造船所をリストラされた労働者と幼なじみの若妻。
立ち退きを拒み続ける老婆と孫の市役所職員。
プラネタリウムの管理人と、歓楽街で働く女房、そしてニヒルな息子。
浄水器の販売に手を出し失敗するガス会社の二代目社長。
夜のスナックで毎晩、酔っ払いと対峙し続ける夜の女たち
そして、谷地頭と湯の川温泉をつなぐ市電の運転手。

函館を訪れる観光客の多くは、五稜郭を見て、夜景を見て、朝市を見物して、赤レンガ倉庫で食事をして、土産物を買って帰っていく。でも、彼らが味わうエキゾティズムは、観光地「函館」の「作られた表面」でしかない。

昭和の映像を見ているような気がした。
今は平成、しかも今年でもう24年なのに。
別に昭和と平成で何が変わったわけでもない、のは確か。
年号に関係なく、時間は流れていくのだから。
そんなことはわかっちゃいるけれど、それでもなお、私たちは「昭和」に対する強い郷愁を抱き続けているのではないだろうか。
昭和は決して終わった時代ではなく、今でも人々の心に生き続けている。
「三丁目の夕日」のような映画が今でも人気を博すのも、その現れなのかもしれない。

それと、人々の心の中に宿る「場所性」のようなもの。

造船所をリストラされ、家で悶々としていた青年労働者は、大晦日の夜、家を抜け出し、子供のころに遊んでいた海辺で筏のおもちゃをいじっていた。
幼なじみの奥さんは、夫がいないのに気づき、海辺に向かう。夕闇の中、夫を見つけ、「やっぱりここにいたんだ」と言い、家に帰って年越しそばを食べようと促す。

立ち退きを拒み続ける老婆は、孫の市役所職員が来るたび、「オレはおまえが生まれる前からここに住んでいるんだ。もうじき死ぬから、死ぬのを待っていろ」と言って孫を困らせる。
ある日、可愛がっていた猫が消えてしまい、いつまでもその名を呼び続ける老婆。

畑違いの浄水器の販売をはじめ、まったくうまくいかず、奥さんに当たり散らす小さなプロパンガス会社の二代目社長。
彼なりに会社を伸ばそうとしているのに、父親からは叱責を受け、社内で孤立してしまう。

東京に出た人間にすれば、故郷はいつでも自分を受け入れてくれる母親のようなものとして心の中に生き続けているのかもしれない。
でも、「故郷」で暮らし続ける人間にとっては、そんなセンチメンタルなものじゃない。

けど、何があろうと、どんな目にあおうと、ここに住んで暮らしていくしかない。
離れることはできないのだ。。。
人と土地との、切っても切れない「業」のようなものを感じさせられた。
故郷とは、そういうものなのかもしれない。

エンディングのシーンでは、登場人物が市電の中で揺られている。
ガス屋の社長、プラネタリウムの管理人、造船労働者。。。
それぞれ、先の見えない人生を泳ぎ続ける彼らが、ひとつの市電という空間の中で共存している。
そう、あの市電こそ、故郷という器そのものなんだ。

そういう意味からすれば、人々の故郷を奪った原発事故がいかに大きいものであったか。
故郷を奪うということは、金銭賠償して移転すればいいんだろうという話とは次元が違うのである。
大震災をきっかけに、多くの人たちが、故郷に思いを巡らせたに違いない。
この映画は、そういう点でも貴重な何かを提示しているように思う。

テーマ : 映画感想
ジャンル : 映画

『砂の器』の風景

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年末から年始とずーっとバタバタしていて、気がついたら2月になっていました。
何とも月日の流れるのは早いものです。

この週末、風邪で体調を崩したこともあり、久々に自宅で過ごしました。
寝込むほどではないし、暇つぶしにTSUTAYAに行くと、見慣れたパッケージに目が留まりました。
「砂の器」
おお、なんとも懐かしい名前です。
原作を読んだのは中学生の頃、映画を見たのは大学生の頃でした。
何度も見たり読んだりしているのですが、ふと、また手にとって見たくなりました。

(注:「砂の器」の物語の何たるかは、他サイトでの解説をお読みあそばされ)

松本清張先生は、生前、自分の作品が映画化されると、たいてい失望するとおっしゃっています。
松本清張ファンとしても、私を含めて、同じ意見の人は多いと思います。
特に、この「砂の器」はその代表作みたいなもので、原作を何度も読んだ人間には、映画を見たときの違和感は半端じゃなかった。「え、何これ~」って思いましたもん。

でも、あれから数十年たってもう一度見てみると、これ(映画)はこれでよかったのかな、とも思えました。
要は、原作と映画は別の作品だと割り切ればよいわけですね。映画単体としてみれば、実によく出来ていると思います。かけた予算も半端じゃないだろうし。

原作から思い切って削った(というか、創作した)部分のマイナスを補って余りある映像美です。
それは、昭和10年代、重病を患った遍路の親子が乞食同然の放浪の旅を重ねる、昭和10年代の里山の風景。「放浪の風景」を春夏秋冬の映像美を通して描き出すというのは、映画にしか出来ないことであるし。

実際の映像は、日本全国をロケハンで回ったとのことです。冬の景色は、津軽の竜飛岬で撮影され、俳優さんもスタッフも凍傷の危険を感じながらの撮影だったとか。
原作はともかくとして、この映画の主題は、トリックの解明ではなく、大方の解説にあるとおり、音楽家の出生の秘密に着目することで、親子の情の深さを描き出そうとした、点にあるのでしょう。

数年前に出雲の奥地を旅したとき、砂の器の舞台となった、亀嵩、三成あたりを訪れました。
清張ファンなら必ず立ち寄るであろう亀嵩駅にも行ったし、近くの記念碑にも行きました。

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(実際の撮影は別の駅で行われたのですが)
それに、山深い奥出雲の集落の風景が、物語と妙にシンクロして見えました。
どうしても、そういう目で見てしまうから、かもしれないけれど。
砂の器の物語の舞台設定が、なぜ奥出雲だったのか。
それは、出雲地方には古代より東北弁に似たズーズー弁が使われていたという事実を文献で知った清張氏が、物語に組み込んでみようと着想したのでしょう。
ただ、この方言分布の意外性にこだわらなくたって、山深い田舎であれば、別に日本全国どこでもよかったんじゃないか。
でも、実際に訪れてみると、砂の器の物語は、ここから生まれるべくして生まれたのかな、と妙に納得する部分がありました。

この「砂の器」の原作が刊行されたのは1960年、私が生まれる前のことです。
新幹線や東名高速道路が開通する前、東京から大阪まで在来線の特急で6時間以上かかっていた時代です。もちろん海外へ行くなど夢のような時代だったわけです。
昭和30年の「もはや戦後ではない」宣言から数年の間に、清張氏はこれを書き上げました。
これから高度成長を遂げていこうという時代にあって、清張氏はなぜ、これほど暗い物語を考え出したのでしょうか。
そして、なぜ、ここまで「国民的名作」として人々に受け入れられてきたのでしょうか。
深読みするわけではないけれど、清張氏は、やがて到来する高度経済成長時代の後に来る時代まで予測していたのではないか、ふとそんな気がしないでもありません。


それにしても、です。
話をぶり返しますが、やはり、映画と原作は別作品だと思いたいです。
映画化するに際して、捨象したこと、創作したことがたくさんあります。
(でないと、映画化はとても不可能とされてきた作品だし、仕方がなかったわけですが)

一番大きい差異は、
○ミュージックコンクレート(「寂滅」)がピアノ協奏曲(「宿命」)になった
○ヌーボーグループが消えた

もともと、孤児であった和賀英良なる人物には音楽の素養はなく、最新音響技術を駆使したミュージックコンクレートという訳のわからない現代音楽で観客を煙に巻いていただけです。
評論家の関川重雄も、同様に、内容のまったく伴わないううわべの観念だけの議論を展開してただけの人間です。
他の建築家やら画家やら演出家やら劇作家やらの脇役もすべて同じ。
要は、ヌーボーグループとは、過激派の学生と同じようなもんで、長い時間をかけて蓄積されてきた伝統やら権威やらをすべて否定して、観念で遊んでいるだけの空虚な人間たち。
それでいてプライドだけは人一倍強い。
人のことはあれこれ言うくせに、自らは大したものは創り出せないわけです。
清張氏が最も嫌いとするタイプですよね。
物語上で、彼らが自己崩壊していく様を描き出し、内心拍手喝采、「ざまーみー」的な気持ちでいたのでしょう。
砂の器というタイトルには、もともとそういう意味を持たせていたのだと思います。
でも、映画には関川重雄もヌーボーグループも登場しません。

そもそも、孤児であった主人公がどこでピアノを習ったのか、誰が考えてもあまりにも現実離れしすぎていますよね。
亀嵩を出奔し、大阪で自転車屋の丁稚奉公をしていた和賀少年は、大空襲で一面が焼け野原になり、戸籍も原簿も消失したのをいいことに、死んだ自転車屋の夫妻の子供に成りすまして戸籍を「創作」します。そういう知能に秀でていた主人公が、暗い過去を隠し、成り上がるために目をつけた、ミュージックコンクレート。そして、内容を伴わない空虚な成り上がり集団としてのヌーボーグループ。

この2つは、砂の器の物語から、絶対に外せないファクターだったんです。
清張氏が失望したのも、うなづけますよね。
私個人としては、何時間、たとえ4時間かかろうと5時間かかろうと、前編後編の構成になろうと、原作にできるだけ忠実に描いてほしかったなという気がします。
それは、やりようによっては可能だったんじゃないか、と。

それと、和賀英良が容疑者であると早い段階で決まってしまったこと。
他に真犯人候補がいる中での、犯人探しの要素を捨ててしまった。
原作では、和賀英良が電波法違反で事情聴取を受ける直前まで、関川重雄犯人説も匂わせています。
つまり、この映画は「ミステリー」ではないということですね。

後はエンディングでしょう。
原作のエンディングは、こうです。
渡米直前の羽田空港の出発ロビー。
若い吉村刑事が、今西刑事に促され、搭乗を待つ和賀英良に逮捕状を見せ、手錠をかけずに肩に手をかけて、警察署の車に連行します。
空港に見送りに集まった人たちが、搭乗する予定の飛行機のタラップに和賀英良が現れず、おかしいおかしいとざわめき始めたところに、美しい女性の声で場内アナウンスが流れる場面でエンディングを迎えています。
この場面はぜひとも映像化してほしかった。

映画では、超満員の大ホールでピアノ協奏曲「宿命」を指揮しながら自らもピアノを演奏する和賀が、演奏終了後、満場の拍手の渦の中に放心している。そして、舞台の袖で手に一枚の紙切れを持って立つ今西と吉村の両刑事。
ここで終わっています。
でも、緞帳が下りた後、両刑事が和賀に歩み寄り、紙切れを見せられた和賀が床に崩れ落ちる、というシーンで終わってほしかったと思いますね。
ちょっと和賀を美化しすぎた感がなくもありません。
成り上がった挙句の最期を見せなければ、この物語は完結しません。

それと、原作も映画も触れなかった視点。
自分のすべてを虚像で覆っていた人間が、その化けの皮を剥がされたら、どうやって生きていけばいいのか。和賀英良が、残された人生を本浦秀夫として生きていくとは、どういうことなのか?

人に言えない醜い過去は、醜いがゆえに隠そうとします。
どんなに説明したって、他人にわかってもらえるはずがないから。
しかし、人間は誰だって過去の延長上に生きているのであって、どんなに消したくたって消せやしない。
仏教で言う「業」みたいなものなのかな。

その意味では、原作も映画も、方法の違いはあれ、落としどころは一緒だったのかもしれません。

おわり


昭和49年松竹
監督 野村芳太郎
主演 丹波哲郎、森田健作、加藤剛、島田陽子、緒方拳、山口果林、加藤嘉など。
他にも、渥美清、菅井きんなど、実に多彩な顔ぶれでした

廃市

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学生の頃、一時はまっていた福永武彦の同名小説を映画化したもので、1984年の作品です。
tsutayaで見つけて懐かしくなり、早速レンタルしてきました。
小説も味わいがありますが、全編16ミリで撮影されたというこの映画も、実にナチュラルで古典的で、小説と同様に味わいがあります。

ある初夏の日、九州の田舎町のローカル線の駅に、一人の若者が古びたスーツケースをもって下り立ちます。
彼の名は江口。大学で英文学を学ぶ彼は卒業論文を作成するため、この夏を水郷の町で過ごすことになったのでした。街には掘割が縦横に張り巡らされ、人々は小船で町を行き来していました。
親戚から紹介されたという旧家、貝原家に着くと、快活な娘の安江が何かと面倒を見てくれます。
でも、昔の庄屋を思わせる大きい屋敷に、安江と祖母の二人と、お手伝いさんだけ。
聞けば、母は安江が7歳のときに死んだ、とか。
最初の夜、彼は川面のせせらぐ音の中に、かすかに悲しげな女の泣き声を聞きます。
その後、彼の耳の奥には、この最初の晩のすすり泣きがずっと消えずにいました。
その泣き声の意味を模索するうち、この家の複雑な人間模様が少しずつあきらかになっていきます。
そして、物語は意外な方向へ。
卒論を仕上げた彼は、複雑な思いを胸に、一夏を過ごした想い出の家を静かに去っていくのでした。

監督 大林宜彦
出演 小林聡美、根岸季衣、尾美としのり、峰岸徹

そして、映画の舞台となった、九州柳川の風景です (柳川市ウェブサイトより)

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柳川といえば、千葉の佐原と並び、水郷として有名ですよね。

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しかし、柳川生まれの詩人、北原白秋は「おもひで」の中で、柳川をこんな風に称しています。
『さながら水に浮いた灰色の棺である』
驚くほどに、暗いイメージで、ちょっとびっくりです。
もちろん、それは白秋が詩人だからであって、柳川に暮らす人たちがそんな風に思っているとはとても思えないけれど。

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詩人の目には、水面をたゆたう小船が、あの世へと旅立っていく棺のように映った、のでしょうか。
映画の中で、安江は「この街は死んでいます」とつぶやく。
都会から来たよそ者には理解できないのかもしれないけれど。
堀割を流れるゆったりと淀んだ水の流れに時間の流れがシンクロし、退廃と倦怠が支配する世界。
そこに生まれ、育ち、そして老いていく者にとっては、何かにつけては集まって酒を飲み、謡に興ずる以外、何も楽しみがない。
祖母の十三回忌での宴、夏祭りの歌舞伎などを通して、今はなき峰岸徹演じる義兄、貝原直之が、そんな退廃的な雰囲気を実にリアルに醸しだしていました。
江口がつぶやいた「つまり、芸術的なんですね」の言葉に対して見せた彼の、言葉にできない表情が、この映画のすべてを物語っているのかな、という感じがしました。

それと、小林聡美さん、昔はこんな髪形だったんですね(笑)
髪形以外は、昔も今も変わらないなぁ (これって褒め言葉になってるのかどうか?)

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テーマ : 昔の映画
ジャンル : 映画

ブーリン家の姉妹

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昨年秋に封切られた映画ですが、先日、近くのシネコンで見てきました。
ポップコーンをつまみながら映画を見るのって、楽しいですよね。

さて、16世紀のイングランド王室が舞台の映画です。
跡継ぎの王子に恵まれないヘンリー8世。王妃にはもう子を産む力が残されていないことを知ると、新興貴族のブーリン卿は、叔父のノーフォーク卿とともに、アンとメアリーという二人の娘を王室に『差し出す』ことで王室に接近し、一族の大出世を図ろうと目論みます。

写真右が姉のアン、左が妹のメアリーです。

最初に王の愛人にさせられたのは、結婚したばかりの次女のメアリー。しかし、メアリーが待望の男の子を生んだというのに、王の関心は姉のアンに向けられていきます。仲のよい姉妹の間に不信と葛藤と確執が渦巻いていきます。王や王妃、姉妹の一族を巻き込み、もうドロドロの世界。愛人という立場ではなく、正規の王妃となることを求める強気なアンに押される形で、ヘンリー8世はカトリックの教えに背いて王妃と離婚し、ローマ教会から除名されてしまいます。そこまで犠牲を払ってアンを王妃に迎えたというのに。。。

公式ウェブサイトのproduction noteによると、ブーリン家が実際に暮らしていたヒーバー城も含めてロケハンを重ねたものの、ほとんどは観光地向けに整備されていたため、チューダー王朝の写真や資料を世界中からかき集め、ロンドンのスタジオに豪華なセットを組んだとのことです。
peruriさまの情報によれば、アンが実際に処刑されたのはロンドン塔ですが、映画では都合でドーバー城で撮影されたそうです。息を呑むほどに緊張感が高まるシーンでした。

歴史考証が精緻なのはもちろんですが、なにより、とにかく映像が綺麗です。衣装やインテリアが実にきれいに再現されていて、映像美だけでも一見の価値はありますね。

なお、アン・ブーリンは、世界史で大英帝国の地位を確立したといってもいい女帝エリザベスⅠ世の母にあたります。男の子を生むことができず、ヘンリー8世に遠ざけられて処刑されてしまうアンが生んだ娘が、のちのエリザベスⅠ世になるわけですから、皮肉というか運命のいたずらというか。。。
母娘ともども、実に破天荒で、波乱万丈だったのですね。
中世ヨーロッパの歴史の本とか、少し読んでみたくなりました。

2008年作品
原作 フィリッパ・グレゴリー
監督 ジャスティン・チャドウィック
出演 ナタリー・ポートマン(アン)、スカーレット・ヨハンソン(メアリー)、エリック・バナ(ヘンリー8世)ほか

テーマ : 最近見た映画
ジャンル : 映画

8月のクリスマス

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数年前、韓国映画にはまっていた時期がありました。
といっても、わたしはtsutayaでレンタルできる映画を人並みに見ていた程度です。
熱狂的なファン(というか、追っかけ?)は、ものすごいですからね。
日本でも北新宿のコリアンタウン、大久保界隈でお目にかかれます(笑)

それはさておき、日本で人気の韓国映画というと、「シュリ」に代表されるサスペンスアクションものと、「冬ソナ」に代表される純愛ものに流れが分かれるみたいですが、わたしはどちらも好きですね。今日は、久しぶりにtsutayaの韓国映画コーナーで、3本ほど借りてきました。
「8月のクリスマス」 
「うつせみ」
「浜辺の女」
いずれも、純愛もののほうです。サスペンスものは一度見れば飽きてしまいますが、純愛ものは不思議と何度見ても新鮮なんですね。

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まずは「8月のクリスマス」から。
街の片隅で小さい写真館を営むジョンウォン(ハン・ソッキュ)。さわやかな笑顔を振りまいていますが、治る見込みのない病を抱え、複雑な気持ちで父と二人、暮らしています。

真夏のある日、違法駐車取締官のタリム(シム・ウナ)が写真館にやってきます。
(日本の婦人警官とはビミョーに立場が違うみたいです)
つっけんどんに写真の現像を頼むタリムに、「今は忙しいから時間がかかりますよ」と答えるジョンウォンであったが、暑い中、店の前の木の下でじっと待っているタリムに、ジョンウォンはアイスキャンディーを差し出す。笑顔の二人、とてもいい感じです。

互いに意識しあうようになっても、ジョンウォンはタリムに自分の病気のことを告白しませんでした。そして、ついにジョンウォンは発作を起こし、病院へ。タリムは来る日も来る日も、主のいない写真館を訪れては、手紙を差し入れ、店の前で行ったり来たりを繰り返し、あげくにガラス窓に石を投げつけたり。。。

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ハン・ソッキュさんは、やはり「シュリ」でのKCIA捜査官のイメージが強く残っているのですが、この作品では、何気ない場面、たとえば、父親がわかりやすいようビデオや現像機の使い方をメモするシーン、父親が寝ているそばにそっと横たわり優しく父を見つめるシーン、自らの葬式用の写真を撮るシーン、どれをとっても味わい深いです。さすが、韓国を代表する名優です。
(年代が同じで、けっこうファンだったりします)

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伝統的な韓式住宅に父と住むジョンウォン。何気に爪を切るシーンも、実にさまになっています。

韓国では、人が亡くなると「アイゴー」と号泣するのは有名ですが、この映画では、死を意識するシーンはなく、無理に涙を誘う場面はまったくありません。心のひだに自然にしみ込んで、ほろりとさせられる、本当によくできた作品だと思います。

そして、当ブログお題の「風景」との関わりですが、ソウルのごく普通の街並みと、そこで暮らす庶民の暮らしがリアルに描かれています。タリムを後ろに乗せ、ソウルの下町を赤いポンコツの原チャで駆け抜けるジョンウォン。映画の設定はソウル市内ですが、少し昔の風景を求めて全羅北道の群山(クンサン)で撮影されたそうです。

この映画は1998年作品で、すでに10年以上たっています。
韓国映画のロケ地を熱心に訪問しておられる、ばつ丸さまの情報によれば、写真館はロケ用につくられたセットで、撮影終了後は駐車場になり、今は飲食店になっているそうです。その他、本作品に出てきた多くのスポットは、当時と大きく変わってしまったそうで、こればかりは仕方ありません。韓国の都会の変わりようは、東京のそれをしのぐスピードで進んでいるのかもしれませんね。
映画に出てくる韓式住宅も、急速な勢いで消えているようです。

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ラストシーンは雪景色です。
真っ白に彩られたジョンウォンの母校と写真館。
亡き息子が愛用していた赤い原チャに乗って父親が写真を届けに出て行った後、黒のコートとロングブーツで美しく着飾ったタリムが写真館にやってきます。通りに佇み、写真館の中に自分の写真が飾られているのを見てそっと微笑む彼女。
とても印象的でした。

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Author:fabio777
古民家での晴耕雨読な暮らしに憧れる軟弱な熊谷都民。

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